第25話 あなたが望むなら
俺達は帰る。君の完璧すぎる部屋へと。
さっきまでいた俺の普通のワンルームとは、もはや別次元のコントラストがとても眩しくて、目がチカチカするくらいだ。
さすがに、ちょっと大袈裟か。
九条さん手作りの、お洒落で、彩り豊かな夕食を終えて。二人でローテーブルに向かい、食後の穏やかなひと時を過ごす。
──と、言いたいところだけど、俺の胃袋は、ちっとも穏やかじゃなかった。
今晩も、肉が、いなかったのだ。
肉よ、一体何処へ。
俺は、自分で言うのもなんだが、育ち盛りのお年頃というやつで。
清涼すぎる君と違って、光合成だけじゃ生きていけないんだよ。俺の身体は今、もっとこう、脂っこくて茶色くて、暴力的な『何か』を求めている!
ほら、想像してみてくれ。
脳裏に広がるのは、黄金色に輝くカレーの大海原。そこにハンバーグという名の浮島が堂々と浮かび上がり、福神漬けの雨が降り注ぐ光景を。
ああ、揚げたてのカツを枕にして眠るのもいい。
肉汁が、決壊したダムのように溢れ出すステーキも、白いご飯を無限にかきこませる、羽根つきのパリパリ餃子も堪らない。そう思わないか?
そして、唐揚げはどこ?
男子が最も愛すべきおかずランキング、不動の一位なのに!
とにかく、肉だ。肉が食べたい(泣)
この、あまりにも禅寺じみた高尚な食事が、いつまでも続くというのなら。
九条 葵、君と俺のこの同居生活は、深刻な『油分不足』により、早々に破綻をきたすだろう。
九条さん、君とは近いうちに家族会議が必要だね。
ん? ……家族会議?
君と俺の話し合いは、何ていえばいいんだ?
まあ、いいや。とにかく、そういうことだ。
カモミールティーを一口すする。
心地よい沈黙が、リビングに落ちてゆく。
我が家でのやり取り──『あなたのだから』という彼女の痛々しい告白と、『合い鍵』という、あまりにも重い交換。俺が君の家の鍵を持ち、君が俺の家の鍵を持つという儀式のようなもの。
おまけに、君に男性の影が無いことも知ってしまった。
それらが、まだ俺たちの間に生々しく漂っているのかもしれない。
「さてと……九条さん」
「なに?」
「明日から学校だし……その、ちょっと勉強してもいいかな? 入院中、全然できてなかったからさ」
「もちろん」
彼女はそう言って、リビングの奥にある棚から、俺が休んでいた数日分のノートを持ってきてくれた。
「はい、これ水無月くんが休んでた時の分」
「お、ありがとう……って、うわ、数学こんなに進んでんの?」
「大丈夫。ここは、こう解くだけだから」
俺たちはソファを背もたれにして、ローテーブルの床に並んで座った。
さっきまでの、あの妙に甘酸っぱい空気はどこへやら。目の前のノートに集中する彼女の横顔は、教室で見る『九条 葵』そのものだったよ。
遠かったままの彼女が、そこにいた。
知的で、凛としていて、手を伸ばしても届かないんだ。
こちらを見てくれさえ、しない。
そんな君がいた。
遠いのか、近いのか、分からなくなりかけて。
つい、無意識に手を伸ばしかけた。
「どうしたの?」
「ん、いや、学校で見る顔と同じだなと思って」
「なによ、それ。もう」
彼女は小さく頬を膨らませると、再びノートに視線を落とす。
その滑らかな指先が示す数式や、分かりやすくまとめられた日本史の要点を、必死で頭に叩き込む。
ふわりと香る、彼女の甘い匂いが好き。
それさえなければ、本当に学校の教室にいると錯覚してしまいそうだった。
「うん、大体わかった。ありがとう、九条さん」
「どういたしまして」
入院中の遅れをどうにか取り戻し、俺は、自室から持ってきた参考書を数冊を取り出した。中学レベルからやり直す、英語の基礎問題集だ。
パラパラとページをめくり、最初の文法解説を読み始めた俺に、彼女が不思議そうに声をかける。
「……水無月くん、英語も勉強するの?」
「え? ああ、まあね」
「英語、好きなの?」
その、何の気なしな問いかけに、胸が小さくざわつく。
好きだけど、実はそうじゃない。
俺が知りたいのは、ただ一つ。君が時折呟く、あの英語の意味だよ。幸せそうかと思えば、急に、泣き出すのを必死で堪えるかのように呟くから。
君がその完璧な仮面の下に隠している、本当の素顔を知りたい。
ただ、それだけなんだ。
そんな本音、言えるはずもなく。
俺は照れを隠すように、わざとらしく頭をかいた。
「いや、ほら。吉岡先生のクラスの者としては、無様な成績は見せられないだろ」
「……ふふ、それもそうね」
上手く行った。彼女はそれ以上何も聞かず、ただ優しく微笑むと、今度は自分の文庫本へと視線を落としていく。
そうして、俺が英語の問題集と格闘し、彼女が静かに読書の世界に沈んでから、更に一時間ほどが経っただろうか。
「ふぅ、なんだか疲れたな」
「水無月くん、お先にお風呂どうぞ」
「いやいや、先は悪いよ。九条さんこそ入りなよ」
「ふぅん。私が入った後がいいんだ」
「ち、違うよ。何言ってるんだよ。怒るよ」
俺の慌てぶりにくすりと笑うと、彼女はキッチンから大きなビニール袋とテープを持ってきた。
脱衣所で二人きり。気のせいかな、空気がやけに甘くて重い。
「シャツだけ脱いでくれる? ビニール巻かないとだから」
「う、うん」
俺がシャツを脱ぐのを待ってから、彼女は慣れた手つきで俺の右腕のギプスに、これでもかとビニールを巻き付けていく。左手にも。
「えらい、手際がいいね」
「ん、昨日、病院で看護師さんに、やり方教わってきたから」
「……そうなんだ」
晒した上半身に、彼女の指先が触れるたび心臓が跳ね、心は乱れる。
顔を見ないようにしていても、彼女の甘い香りが容赦なく鼻腔をくすぐるから。
もう、どうしようもない。
どうにか準備を終えると、九条さんを追いだし、浴室へと逃げるように滑り込む。
モデルが住む家の浴室は、やっぱり俺の知るそれとは違い、無駄に広く、とても綺麗に磨き上げられている。
掛湯のあと、大きな湯船にそっと体を沈めた。
「ふうぅ……」
ようやく訪れた、安息の時。
怪我の鈍痛も、さらけ出した羞恥も。それから、君と積み重ね始めた小さな約束すら。己にとっては過剰なまでの緊張。知らず知らず強張り始めていた心身の結び目が、温かな浮力に身を預けることでゆるゆると解けていく。
湯面から立ち上る温かな白煙には、果実を搾ったばかりのような、瑞々しい柑橘の香りが溶け込んでいた。
入浴剤か、こんなところまで意識が高いんだ……。
彼女の徹底した『九条 葵』っぷりに、俺はクスリと笑みを漏らす。
いよいよか、問題の洗髪の時間がやってくる。
ビニール越しの左手でシャンプーのボトルを押し、泡立てようともがく。洗えはするものの、指二本では爽快感の欠片もなかった。なんだこれは。
こんなので、ちゃんと汚れが落ちるのかと不安になる。
「まいったな……!」
その、独り言が引き金になったのか。
ガチャリ。
あり得ない音が、俺の背後で鳴った。
反射的に振り返ろうとして──固まる。それこそ石のように。
湯気の中に立っていたのは、大きなバスタオル一枚だけを、その完璧すぎる肢体に巻き付けた、九条 葵、その人だったからだ。
「……んなっ」
思わずカエルが潰れたような声を上げ、慌てて正面の壁へと向き直る。ま、前は鏡があるから駄目だ、下だ、下を見ろ。
でも嘘だろ。なんで、なんで入ってくんだよ!
心臓が、割れた肋骨を内側から殴りつけるかのように、激しく暴れ出す。
「何が、まいったの?」
俺の狼狽などまるで意に介さず、彼女は静かな声でそう言うと、俺の後ろにそっと膝をついた。シャンプーの、彼女自身と同じ甘い香りが、一気に濃くなってゆく。
そして、その柔らかな指先が俺の髪に触れ、優しく泡立て始める。
「ちょ、九条さん。恥ずかしいからいいって! ていうか、君は平気なのかよ!?」
俺はいま、人生で最も頓珍漢なことを口走っている自覚があった。据え膳を自ら放棄しようとする。
もはや男の風下にも置けないヘタレだ。
「平気よ。何の問題もないわ」
彼女は俺の耳元で、静かに、はっきりとそう答えた。
けれど、その直後。
僅かに聞こえるような、本当に小さな声で彼女が呟いたのを、俺は聞き逃さなかった。
「……Of course it's embarrassing.(恥ずかしいに、決まってるじゃない)」
意味はよくわからないけれど、その言葉に心臓を掴まれる。
何だか我慢できなくて、ちらり、と。
そう、ほんの少しだけ、正面の鏡越しに彼女を盗み見る。
見つからないように、何度も。
湯気で僅かに曇る鏡の向こう。上気した頬、濡れて首筋に張り付いた髪。そして、バスタオルから覗く、なまめかしい鎖骨。
その、あまりにも無防備な姿に、理性が焼き切れそうになる。
俺は再び、慌てて前(下)を向いた。
その、視線に気づいたのだろうか。
頭髪を洗う彼女の手が、僅かに止まった。
「……見たいの?」
「いや、そういう訳じゃ」
そういう訳ではあるけれども……そんなこと言えるかよ。
「あなたが本当に見たいなら、いつでも見せてあげる」
「なっ!?」
それは、俺がこれまで生きて来た日々で、今まで聞いたどんな言葉よりも。
甘美で、破壊的な響きを持っていたよ。




