第24話 君と道すがら
「その……下着とかまで、君に畳んでもらう訳にはいかないだろと思って」
顔を真っ赤にしてそう俯くと、彼女はとても不思議そうな表情で数回、瞬きをした。
それから『何を当たり前のことを』とでも言いたげに、小さく首を傾げている。
「おかしなことを言うのね」
彼女は、俺の羞恥心をまるで理解できないとでもいうように、淡々と続けた。
「じゃあ明日以降はどうするの? 私の家でも、水無月くんのだけは山にしておくつもり?」
「そ、そうじゃないけど」
「でしょう? なら、一緒じゃない」
「くっ……」
だめだ。論破されてしまう。
彼女にこの手の理詰めでこられると、俺に勝てる道理がない。
そもそも、言っていることは彼女の方が圧倒的に正しいのだから、猶更だ。
彼女は俺の敗北を見届けると、抵抗などまるで意に介さず、洗濯物の山にそっと手を差し入れた。シャツやタオルが、彼女のスタイリスト仕込みの技によって恐ろしいほどの速度で、寸分違わぬ四角形へと変えられていく。
……正直、見ていて惚れ惚れするくらいだ。
この後の『本番』さえなければ、ね。
そして、ついに運命の時がやって来る。
彼女によってシャツの地層が全て剥がされ、山中に隠されていた俺の『ソレ』が、白日の下に晒される、その時が。
九条さんは、迷いなく俺の『それ』を……手に取った。
その、瞬間から。
さっきまでの、あの流れるようなプロの技が、嘘のように影を潜めた。彼女の手つきは明らかにぎこちなく、迷いに満ちている。
ちらりと、俺の顔を盗み見る九条 葵。
──交錯する、彼女の視線と俺の死線。
九条さんは慌てて視線を『それ』へと戻した。その耳が、首筋まで真っ赤に染まっているのが、横からでもはっきりと見てとれた。
シャツの時とは明らかに違う反応。何だか嫌な予感がしてならない。
ぎこちない手つきで、俺の下着ともじもじ格闘していた彼女は、やがて観念したように、消え入りそうな声で呟いた。
「ご、ごめんなさい。男の子の下着畳んだことがなくて」
さらに、言い訳のように付け加える。
「……スタイリストさんも、それは教えてくれなかったから」
最初に言ってよ、それ!
今頃になって言うのは、キツイって。
「ま、まあ、そりゃそうだよね……」
完璧に、プロの技で淡々と処理されるのも恥ずかしい。だけど、さっきまで俺を理詰めで論破してきた張本人が、顔を真っ赤にして、本気で照れながら俺の下着ともじもじ格闘している。
触れば触るほどに。その姿を見せつけられるのは、もっと、どうしようもなく恥ずかしい!
こんなの、羞恥の限界を超えている。
恥ずかしさで死ねる。
穴が無いなら、掘ってでも入りたい。
俺はもう、何も見ないフリをして、窓の外を眺めるのが精一杯だった。
……頼むから、早く終わってくれと、切に願いながら。
こうして、我が家での現実的な問題は、彼女の完璧(?)な手際によって、すべて片付いてしまった。
最後に、膨らんだゴミ袋をマンションのごみ集積所へ放り込んで、おしまい。
俺たちは、色々な意味で濃密すぎた狭い部屋を、ようやく後にすることができた。
気が付けば、随分と陽が落ちていて。
さっきまで差し込んでいた西日はもう、その強さを失い、空は鮮やかなオレンジ色から、夜の気配を孕んだ深い藍色へと変わり始めている。
九条さんのマンションへと戻る、ほんの数十メートルの道すがら。
さっきの下着の一件も、多分にあるかな。
お互いになんとも言えない、けれど決して嫌ではないその沈黙を、二人でそっと分け合っているような、そんな感覚。
流れる穏やかな凪を、そっと揺らしたのは、またしても彼女のほうだった。
「水無月くん」
「ん? どうしたの?」
「さっき家を出る前に、夕飯を作ってくれるって言ったの、覚えてる?」
「ああ、言ったね。ゲームの時の話でしょ?」
「もう……」
彼女は『下手くそ』と言われたのを思い出したのか、頬を小さく膨らませてみせた。
あんなに完璧な彼女の、こういう子供っぽい一面を、近頃すごく可愛いと感じてしまう自分がいる。
「あのね、私、食べてみたいものがあるの」
「え、俺の料理で?」
「うん」
「何だろう、言ってみてくれる?」
「私も、水無月くんの玉子焼き食べてみたいなって……」
予想外のリクエストに、俺は拍子抜けする。
「玉子焼き? そんなんでいいの? 簡単すぎない?」
「ええ」と彼女は、くすくすと笑い出す。
「小園くんが、たまに教室で大きい声で言ってるじゃない」
彼女は、健太の、あのどうしようもなく間の抜けた声色を真似して、続けた。
「『蒼、お前の卵焼きが一番美味い』って。だから、食べてみたいの」
なんてこった。
「九条さんの席まで、聞こえてただなんて……アイツは声が大きすぎるよ、ったく」
顔から火が出るほど恥ずかしい。
けれど、彼女は「全部、聞こえる訳じゃないのよ。たまたま」と言いながら、
「ふふふ」と楽しそうに笑っていた。
その笑顔があまりにも無邪気で、俺はつい、口を滑らせてしまう。
「そんなのでよければ、いつでも作るよ」
「楽しみにしてるわね」
「何なら、九条さんのお弁当も一度作ってみようか?」
俺の軽口に、彼女が足を止めた。
夕闇の中で、その瞳が驚きに揺れている。
「えっ!? 本当に?」
「手が治ったら、だけどね」
俺がギプスの腕を少し持ち上げて見せると、彼女は安堵したように、けれどどこか切なげに目を細める。
そして、誰に聞かせるでもない、吐息のような声で呟く。
「楽しみ……。早く治ればいいのに……」
その言葉には、単なる『お弁当への期待』以上の、もっと切実で、深い祈りのような響きが込められている気がした。
心の底から嬉しそうな、無防備な表情を前にして。俺の中で、ある一つの衝動が、抑えきれないほどに膨れ上がっていく。むくむくと。
さっきの、俺の下着を前に顔を真っ赤にしていた、あの初々しい姿。そして今、隣で笑う、あまりにも眩しい横顔があって。
俺なんかより、余程たくさんの世界を知るであろう──君が。誰よりも恥じらうから。ずっと聞けなかった疑問を、俺の口から滑り出させてしまうんだ。
「あの……九条さん、一つ聞いていいかな」
「なあに?」
「その……さっき、男物の下着を畳むのが初めてって言ってたよね」
「え、ええ、そうね」
「その……彼氏とかは、いないの?」
重くはない沈黙。
「いや、も、もしいたら悪いなって」
九条さんは俺の顔をじっと見つめたまま、見事に固まっている。
やがて、その美しい顔がくしゃりと崩れた。
そんな顔もするんだ……。
「……ふふっ、あはは」
最初は小さかったその声は、すぐに堪えきれなくなったように、くすくす、と楽しそうな笑いの声に変わった。
こんなに笑う君を見るのは、初めてだよ。
「べ、別に、面白くはないだろ」
こっちは、勇気を振り絞って聞いたっていうのに。
「だ、だって……ふふ、ごめんなさい。あまりにも、変なこと聞くんだもの」
彼女は、まだ笑いの余韻が残る瞳で、俺を真っ直ぐに見つめて告げる。
「いる訳ない」
「え?」
「彼氏がいたら、水無月くんと一緒に暮らす訳が、ないでしょう?」
ストレートすぎる答えだったよ。
改めて考えてみると、全くその通りだった。いたら、こんなこと許される筈がないのだと。
聞いたことが恥ずかしいほどに。
俺が、その言葉の本当の重みに息を呑んでいると。
彼女は、ふい、と夜空を見上げる。藍色に染まった空には、もう星が瞬き始めていて。
そして、まるで今の告白を隠すかのように、あの、透き通るような声で、小さな歌を口ずさみ始めた。
「To live inside this lie, I will dream of your ghost.」
聞いたことのないメロディ。
その歌詞の意味は、今の俺にはまだわからない。
呟くようなその歌声は、儚く夜気に溶けて、上手く聞き取れない。
だけど、その声も、横顔も、あまりにも優しくて。
俺は何も言えず、ただずっと君を見ていた。




