第22話 九条 葵という人
その『約束』という言葉の余韻が、俺と彼女の間に妙に甘く、そわそわとした空気を生み出していた。
彼女の顔をまっすぐに見られなくて、俺は意味もなく自分の部屋の壁へと視線をそらす。
「あー……自分の部屋を見られるって、意外と、はずかしいもんだね」
沈黙に耐えかねて漏らした言葉に、彼女は、
「そう、なの」
と、か細い声で応じた。
意外だった。
いつも堂々としている君なら、男の部屋くらい平気なものだと、勝手に思い込んでいたから。
ふと見れば、彼女もなぜか俺から目をそらし、自分の制服のスカートの裾を、指先で小さく弄んでいる姿がいじらしくもある。
俯くその横顔は、確かに耳まで赤く染まっていても、なぜか、その表情は単に「恥ずかしがっている」だけには見えない。
幸せそうに見えて、どこか切なげな色が滲んでいる気がした。
なんだ、この空気。
さっきまでの、あの俺の寝間着を広げていた大胆さはどこへやらだ。
お互い、変に意識してしまって、言葉にできない妙に浮ついた空気が部屋に満ちるばかりじゃないか。
このままでは、本当にただの『お部屋デート』になってしまうぞ!
いやいや、違うって。
俺と彼女は断じてそんな仲ではない。
彼女が示してくれているのが本物の『好意』なのかもまだわからないし、俺が一方的に憧れている『だけ』だ。そう、それだけのはずだ。
調子に乗ってはいけない。
「ごほん!」
俺はこの甘ったるくも、どこか胸が締め付けられるような空気を振り払うように、わざとらしく一つ咳払いをして、無理やり現実へと意識を引き戻す。
「……そうだ、九条さん冷蔵庫だよ。今日は遊びに来たんじゃないんだから」
「そ、そうだったわね。ごめんなさい!」
俺の言葉に、彼女もハッと我に返ったように、慌ててぴしりと背筋を伸ばした。どうやら彼女も、さっきの『約束』に浮ついていたらしい。
「水無月くんは、そこのベッドにでも座ってて。 私が冷蔵庫を片付けるから」
「いや、でも……」
情けないとは思いつつも、俺が立ち上がろうとベッドサイドから腰を浮かせかけると、彼女は「だめ」と、その動きを強い口調で制した。
「まかせて。水無月くんは、怪我人なんだから」
「そうは言うけど……ここは俺の家だし、君にばかりさせられないよ」
「じゃあ、そのかわり」
彼女は、何か良いことを思いついたように笑った。
「ベランダの、洗濯物だけ取り込んでおいてくれる?」
彼女はそう言って、窓際を指差す。
ああ、そうだった。俺が一人で焦っていた、もう一つの懸案事項が残っていたのをすっかり忘れていたよ。
「わかった。それくらいなら、なんとかなりそう」
俺は不自由な左手と、ギプスの先端から僅かに突き出ている右の指を器用に使い、ベランダに干されたままだった自分のシャツやタオル、それ以外の物も一枚一枚取り込んでいく。
さてと、問題は下着だよな。
こればかりは彼女に見えないよう、こっそりと洗濯物の山の一番奥に隠すのを忘れてはいけない。
よし、自然だ。これならいける。
俺がベランダで洗濯物と格闘している間、彼女はキッチンでいよいよ、本丸の冷蔵庫と向き合っていた。俺はベランダ越しに、その戦況を見守るしかない。
九条さんは、ためらうことなく冷蔵庫の扉を開けた。
「……うん。意外と大丈夫そうね」
「ホントに?」
「ええ、さすがに木曜からだから、何も腐ったりはしてないわ」
「ああ、よかった……」
「でも、念のため、この飲みかけのお茶は捨てましょう。牛乳も一度開けてるから」
「もったいないけど、しょうがないね」
「それと、卵。……あ、これ賞味期限が切れてる」
彼女は、それらの『入院前の生活の残骸』を素手のまま掴み、一切、嫌な顔一つせずに、手際よくゴミ袋にまとめていく。
その姿を見ているうちに、俺の胸の奥がじわっと熱く、そして痛んだ。
こんなこと、普通、嫌がるだろ……。
他人の家の、放置された冷蔵庫の中身だぞ。それを、率先してやってくれる人なんているか?
学校一の美貌も、モデルという肩書きも、完璧超人なんて評価も。そんなものは、今の彼女の前では何の意味も持たない。目の前にいるのは、俺のために手が汚れることさえ厭わないでくれる、ただ、ひたすらに優しい女の子だけだった。
感謝と、それ以上の罪悪感でどうしようもなくなって、俺は声を絞り出す。
「九条さん、本当にごめん。そんなことまで、させちゃって」
彼女は何も言わず、ただ黙々と手を動かしている。
健気な華奢な背中に向かって、俺は思わず、心からの言葉を漏らした。
「……君は、本当に優しいね」
その一言で。
彼女は、ゴミ袋を縛る手をぴたりと止めた。
「……違うの」
「え?」
振り返った彼女の顔を見て、俺は息を呑む。
まるで泣き出す寸前のように顔を歪めて、それでも、慌てて無理に微笑んでみせたからだ。
「優しくなんかないの、他の人のは絶対にしないから」
彼女は、絞り出すような声で言った。
「ありえないから。……だから、いいの」
「九条さん……?」
彼女は、ゴミ袋の結び目を握りしめるその手に、爪が白く食い込むほど力を込める。そして、消え入りそうな瞳で、告げた。
「あなたのだから、やってるの」
──まただ。
君はまたそうして、俺の知らない顔を見せる。
『あなたのだから』その言葉に、嘘はないと、俺の心臓が先に理解してしまう。
だというのに。
どうして君は、そんな甘い告白みたいな言葉を口にしながら、終わりゆく夢を惜しむような、そんな痛々しい顔をするんだ?
覗いてみたいよ。
君の、その完璧な……美しい仮面の下にある、本当の胸の内を。
そこには、一体、何が隠されているんだい?
俺に、見せてくれよ。
──九条、葵さん。
俺は本当に、君を好きになってもいいのだろうか。
そんな簡単なことすら、わからなくなるよ。




