第19話 襟元の向こう側
カモミールティーの不思議な風味に感心していると、彼女は「そうだ」と何かを思い出したように、ふわりと席を立つ。
何だろう?
目で追う先で、彼女は部屋の端にある、大きな例のクローゼットの扉を開ける。そして、中から赤い箱をひとつ、大切そうに抱えて戻ってきた。
「水無月くん、これ、よかったら使って」
そう言って俺の前に置かれた箱を見て、俺は目を疑ったよ。
それは、最新の携帯ゲーム機のパッケージだったから。
本体の中央ディスプレイ部分は、まるで一枚のガラス板のようになめらかで、付属の台座にカチリと収めれば、テレビ画面で遊ぶ据え置き機になる。それなのに、台座から引き抜けば、たちまち手元の画面で遊べる携帯機へと早変わり。
その変幻自在なスタイルが人気を博し、今やどこも品薄で、予約すら困難だと聞いている。
そんな話題の最新機種が、なぜ今、ここに?
「え、どうしたの? これ。なかなか手に入らないらしいのに」
驚きを隠そうともせず、思わず問い返してしまう。
それくらいに、九条 葵と最新ゲーム機という組み合わせは、色々とありえなさすぎた。
彼女はティーカップを静かにソーサーに戻す。
そして淡々と、でもでも、その瞳の奥には隠しきれない誇らしげな光を宿して続けた。
これが、たぶん、初めて見る彼女の『ドヤ顔』というやつか。
心なしか胸も少し張っているように見えるその姿が、妙に可愛らしくて。思わず目を細めるしかない。
「誰にも言わないでね? 仕事で偶然その業界の人と知り合えたから、特別にお願いして譲ってもらったの」
「へぇ~、それは凄い。九条さん、顔広いんだなぁ」
「ほら、私の家、本くらいしかないから、水無月くん退屈しちゃうかなと思って」
おい、聞いたか? ここに女神がいるぞ。
女神の用意周到さよ。俺がこの部屋で感じるかもしれない、わずかな疎外感や退屈さまで、彼女は完璧に先回りして対処していたのだ。
その行為は、どうしようもなくありがたい。と、同時に、自分の内側をすべて見透かされているような、むず痒い恥ずかしさも生みだすわけだけど。
「それに、男の子って、こういうの好きって聞いたから」
男の子、ね。
無邪気な響きに、俺は内心で乾いた笑いを漏らす。
……あまり侮っちゃいけない、九条さん。
君が思っているほど、俺たち『男の子』という生き物は、そんなに単純で、可愛いものじゃない。君が時折見せる無防備さに、俺がどれだけ邪で、どうしようもない思考を巡らせていたか、君は知らないだろ?
犬にも狼にもなる、それが俺達だ! ふん。
彼女は、そんな俺の複雑な感情を気にする様子もなく、そのゲーム機を俺に手渡した。ずっしりとした重みが、手に確かな現実感をもたらす。
「ただ、私はよくわからないから、テレビには、水無月くんが繋げてね」
さてと、彼女の言ってることは、ようくわかる。
いまだかつて、こういう配線が得意な女子を見たことが無い。少なくとも俺はしらない。
だが問題は別にある。テレビの裏側に並ぶ小さな差し込み口に、ギプスで固められた右腕と、二本の指しか動かない左手で、ケーブルを挿せるだろうか。
──無理だ。試すまでもない。
「九条さん」
「なあに?」
「俺の手はこんなだからさ、ちゃんと口で説明するから、九条さんが挿してみてよ」
俺の素直な『降伏宣言』に、彼女は、ほんの少しだけ驚いたように目を見開く。だけど、すぐに「わかったわ」と嬉しそうに応じてくれた。
彼女は俺の目の前の床に、そっと膝をついた。
すると、その細い身体をぐっと前に倒して、テレビの埃っぽい裏側へと顔を近づける。
「ええと……たくさん穴があるわね。どこに挿せばいいの?」
困惑した声が、床からくぐもって聞こえる。
「HDMIって書いてあるやつわかる? ここからだと……ちょっと見えないな」
この、不自由な身体が何とももどかしい。
俺は身を乗り出し、彼女の肩越しになるよう「どれどれ」と顔を寄せた。そうするしかなかったんだ。すると、カモミールティーの香りとは違う、彼女自身の甘い匂いが、ふわりと鼻腔をくすぐるから。
──つい、その匂いに、引かれてしまったんだ。
無意識に、俺の視線は彼女のうなじから、その黒いシャツへと滑り落ちてしまう。
彼女の上半身を包む、少しゆったりとした黒いシャツ。
テレビの裏を見ようと深く身をかがめたことで、その襟元が、抗いがたい重力に従って、僅かに、けれど大胆に開かれている。
俺の視線は、吸い寄せられるように、見てはいけないものを捉えてしまうよ。
──これは不可抗力だ、そうだろう? 俺だけじゃないはずだ。
シャツの僅かな隙間の向こう。雪のように白い肌と、その柔らかな膨らみの谷間にくっきりと浮かび上がる、対照的な黒いレースの『布地』を──
心臓がこれでもかと、大きく跳ねた。
見てはいけない。そう思うのに、視線は焼き付いたように、その甘美なコントラストから逸らせない。逸らせないんだ。
「……み、水無月くん? どこ?」
何も言わなくなったのを不思議に思ったのか、彼女が無防備な美貌そのままに、上目遣いにこちらを見上げる。
まずい、と思った時には、もう遅かった。
俺の視線がテレビの裏側ではない、もっと別の場所を捉えていたことに、彼女が気づいてしまったのだ。
交錯した視線が、数秒、凍り付いたように互いから離れない。
彼女の白い頬が、じわり、と熱を帯びていく。
そうして、俺の視線が何を意味していたのかを理解した瞬間、まるで熱湯を浴びたかのように、熟れた果実の色へと一瞬で染め上がった。
「っ……!」
悲鳴にすらならない小さな息を飲み、彼女は慌てて、開いた襟元を小さく握りしめる。
「……もう」
「ご、ごめん、つい……」
咎めるような、拗ねるような。
それでいて甘さを帯びた声が、かろうじて彼女の唇からこぼれ落ちる。それは拒絶の響きではなく、見られたことへの恥じらいそのもの。
俺には、そうとしか聞こえなかった。
だから、救われた。
火傷しそうなほどの熱を持った自分の顔から、どうにかそれだけの言葉を絞り出すのが精一杯だった。
カモミールティーの香りが満ちる部屋で、甘く気まずい沈黙が、俺と彼女の間に重く、しかし妙に優しく横たわっていた。




