第17話 それは、キスではない(らしい)
──命令ではなかった。
それは、『開けないで』という、彼女のか細い懇願のカタチ。
けれど、もしもそれを開けてしまったのなら……その瞬間に、この温かくも奇妙な暮らしは終わりを迎える。
そういう、静かなる誓言だったと思う。
そもそも、人様のお宅に世話になる身で、開けるなと言われた棚を漁る奴なんてそうそういないだろう。モデルの仕事をしていれば猶更で、契約中の商品とか、広告主とのややこしい色々も中にありそうだもんな。
そうそう、言っておくけど。
下着の場所を探すとか、そういうゲスな好奇心は、一切俺に期待するなよ?
「──それじゃあ、水無月くん」
さっきまでの、あの息が詰まるようなシリアスな空気なんて、まるで無かったように振る舞う。彼女は、どこかとても明るい声を乗せて、はにかみながら言うものだから。
その落差と眩しさに俺はつい、君に見惚れてしまいそうになるんだ。
「お昼にしましょう。準備するから、まっててくれる?」
「え……、もしかして九条さんが、作ってくれるの?」
「ふふ、おかしな蒼くん。私とあなたしかいないのに?」
……俺の脳が言葉の意味を理解するのに、数秒を要した。
あの、学校一の美女。教室の隅から群衆のように遠巻きに眺めるだけだった、歩く絵画が。俺のために食事を作るだって?
しかも、その……えっと、なんていうか。
もしかして『あーん付き』だったり……。病室でもそうだったもんな。
あり得ない予測に頭がクラクラとしてきた。
同時に俺は、もう一つの、ずっと引っかかっていた違和感にも気づいてしまう。
今、また、『蒼くん』って言ったよな──
何だかとても懐かしい響きに、脳裏を何かが掠めていく。
それは、遠い遠い昔の、夕陽の匂いではなかったか。
「そうくん」
「そうくん、見てほら! ゆうひがきれい」
陽光を透かして、蜂蜜色の髪が一層眩く煌めく。こちらを振り返った、蒼い瞳の少女。
一瞬だけ蘇ったその幻影は、あまりにも朧げで、すぐに現実の靄の中へと消えてしまった。
──そして、なぜか胸がチクリと痛んだ……。
懐かしいはずの記憶が、なぜ痛むのだろう。
時折混じる、その親密すぎる呼び方に俺はまたしても、答えの出ない小さな疑問符を浮かべるしかない。
蒼くん、か……。
「ただ、ごめんなさい。時間もなかったから、簡単なものになるけど。いい?」
「しょうがないよ。病院から戻ってきたところだから、気にしないで」
とは言ったものの。
漫画やアニメなら、ここはお約束すぎる場面なはず。
完璧超人の『高嶺の花』が、なぜか料理の腕だけは絶望的な、あのド定番のイベントだ。
『さ、召し上がれ!』とキラキラした笑顔で、この世のものとは思えない紫色の『何か』を差し出してくる。しかも大抵は、世の法則を無視して、皿の上で蠢いていたりもする(笑)
そうそう、変な泡までブクブクと吹いてたりするんだよな。怖い怖い。
なに? ……九条 葵は、どうかって?
ナイナイ。あり得ないにも程がある。『完璧』の化身のような彼女が、そんな分かりやすいポンコツ属性を、持っていると思うか? そっちの方がありえないだろう。
俺が、そんな一人漫談を心の中で必死に講じている間にも。
彼女は、このモノトーンの部屋に、これまた見事にビルトインされたお洒落すぎるキッチンに立ち、冷蔵庫を開けた。
「何が食べたいとか、ある?」
「え!? いや、何でもいいよ」
「そう。じゃあ、パスタでもいいかしら?」
パスタ! いいじゃないか、簡単で美味い。俺もよく作るよ。
ペペロンチーノ? カルボナーラ?
いや、ここは、王道のミートソースも捨て難いぞ……挽肉がこれでもかと、ゴロゴロ入ってるのが肉肉しくて良いんだよな。
ああでも、ナポリタンも捨てがたい。
口をケチャップ塗れにして食べるのが、またいいんだ。
「美味しそうだ」
想像するだけで、お腹が減ってくる。
突如、膨張し始める『肉食』への期待。
これは育ち盛りの男子高校生として、あまりにも真っ当すぎる夢、渇望といっていいかも。ましてや、ここしばらくは質素な病院食が続いていたからなあ。
そんな俺の切実な望みなど知る由もなく、九条さんは、冷蔵庫から次々と、色鮮やかな『何か』を取り出していく。
アスパラガス。スナップエンドウ。春キャベツ。菜の花……。
……あれ? 待って肉は? 肉はどこだ?
ベーコンの一枚すら、見当たらないぞ?
彼女はそれらの野菜を、流れるような、一切無駄のない所作で刻んでいく。フライパンを煽る姿すら、どこかの雑誌のワンシーンを切り取ったみたいに完璧だ。
キッチンに広がるのは、茹でた麺の香りと、春の、青々とした芳香のみ。
……うん。青々としすぎている。
やがて、俺の前に差し出されたのは、白く、大きな皿。
そこにあったのは──俺の知っているパスタではなくて。何て言うか、麺よりも野菜の方が圧倒的に多いというシロモノ。
えっと、九条さんや。これは、所謂パスタという名の付いた、サラダなのではないかい?
あまりにもヘルシーすぎた『緑色の皿』を前に軽く絶句していると、彼女は、さも当然、という顔で、俺の向かいの席にそっと腰を下ろす。
「……食べないの?」
「あ、いや、食べる。食べるけど……」
彼女の純粋な視線を感じながら、左手の、かろうじて動く指でフォークを握りしめた。そうだ。パスタ程度なら、この手でも食べられるはず。
可能な限り自分のことは、自分でやらないと。これ以上、彼女の負担を増やすわけにはいかない。
己の尊厳全てをかけて、そのパスタ(という名のサラダ)を、必死に巻き取ろうとした。
──だが、巻けない!
指二本では力が入らず、おまけに痛くて、フォークが綺麗に回せない。
アスパラガスを一本、なんとか突き刺し、麺を数本、無理やり絡ませてみる。
そのまま『塊』を不格好に、口へと運んだ。右腕はギプスにくるまれた、ただの重りでしかなく、食事に手を添える、などという上品な所作は期待できそうにない。
苦難と共に味わった、その味は。
「え? ……美味っ!?」
思わず、声が漏れるほど。
シャキシャキとした野菜の歯ごたえ。アルデンテに仕上がった麺が負けていない。
悔しいが、文句のつけようがないほど、美味い。
「そ、そう。ありがとう」
俺が、その文句なしの美味さに、不自由な左手で再び格闘していた、その時だった。
「……あ」
目の前の彼女が、小さな声を上げる
視線を落とすと、どうやら俺の不器用な手元が、一筋のパスタを、テーブルの上へと落としてしまっていたらしい。
「……もう。見ていられないわ」
彼女はくすり、と。
昨日見せてくれた、例のどうしようもなく甘い笑顔で笑うんだ。
セリフと表情が、あっていなさすぎると思わないか?
すると今度は、自分の皿にあるパスタを、自分のフォークでくるくると器用に巻き取った。
「え、ちょ……」
彼女はそのフォークを、テーブル越しに俺の口元に、そっと差し出す。
吸い込まれそうなほど澄んだ瞳には、「ほら、あーんして」とでも言いたげな、悪戯っぽい光を宿らせて。
「はい、どうぞ」
俺は観念して、口を開け……ようとして、寸前で踏みとどまった。
待て、待て、待て。いま、彼女が差し出しているフォークって。さっきまで彼女の唇が触れていたやつ、だよな……? だろ?
こ、これって、世に言う、『間接キスイベント』ってやつじゃ、ないのか!?
しかも、九条 葵と!?
「……どうしたの? 早くしてくれないと、腕が辛いのだけど」
「いや、だって、これって……」
俺の葛藤を見透かしたように、彼女は僅かに首を傾げて、とどめを刺してくる。
「いや、なの?」




