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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第二章 突如始まる、秘密で甘い同居生活

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第17話 それは、キスではない(らしい)

 ──命令ではなかった。

 それは、『開けないで』という、彼女のか細い懇願のカタチ。

 けれど、もしもそれを開けてしまったのなら……その瞬間に、この温かくも奇妙な暮らしは終わりを迎える。

 そういう、静かなる誓言だったと思う。


 そもそも、人様のお宅に世話になる身で、開けるなと言われた棚を漁る奴なんてそうそういないだろう。モデルの仕事をしていれば猶更で、契約中の商品とか、広告主とのややこしい色々も中にありそうだもんな。

 そうそう、言っておくけど。

 下着の場所を探すとか、そういうゲスな好奇心は、一切俺に期待するなよ?


「──それじゃあ、水無月くん」

 

 さっきまでの、あの息が詰まるようなシリアスな空気なんて、まるで無かったように振る舞う。彼女は、どこかとても明るい声を乗せて、はにかみながら言うものだから。

 その落差と眩しさに俺はつい、君に見惚れてしまいそうになるんだ。


「お昼にしましょう。準備するから、まっててくれる?」

「え……、もしかして九条さんが、作ってくれるの?」


「ふふ、おかしな蒼くん。私とあなたしかいないのに?」


 ……俺の脳が言葉の意味を理解するのに、数秒を要した。

 あの、学校一の美女。教室の隅から群衆のように遠巻きに眺めるだけだった、歩く絵画が。俺のために食事を作るだって?

 しかも、その……えっと、なんていうか。

 もしかして『あーん付き』だったり……。病室でもそうだったもんな。


 あり得ない予測に頭がクラクラとしてきた。

 同時に俺は、もう一つの、ずっと引っかかっていた違和感にも気づいてしまう。

 今、また、『蒼くん』って言ったよな──


 何だかとても懐かしい響きに、脳裏を何かが掠めていく。

 それは、遠い遠い昔の、夕陽の匂いではなかったか。

「そうくん」

「そうくん、見てほら! ゆうひがきれい」

 陽光を透かして、蜂蜜色の髪が一層眩く煌めく。こちらを振り返った、蒼い瞳の少女。

 一瞬だけ蘇ったその幻影は、あまりにも朧げで、すぐに現実の(もや)の中へと消えてしまった。

 ──そして、なぜか胸がチクリと痛んだ……。


 懐かしいはずの記憶が、なぜ痛むのだろう。

 

 時折混じる、その親密すぎる呼び方に俺はまたしても、答えの出ない小さな疑問符を浮かべるしかない。

 蒼くん、か……。


「ただ、ごめんなさい。時間もなかったから、簡単なものになるけど。いい?」

「しょうがないよ。病院から戻ってきたところだから、気にしないで」

 とは言ったものの。

 漫画やアニメなら、ここはお約束すぎる場面なはず。


 完璧超人の『高嶺の花』が、なぜか料理の腕だけは絶望的な、あのド定番のイベントだ。

『さ、召し上がれ!』とキラキラした笑顔で、この世のものとは思えない紫色の『何か』を差し出してくる。しかも大抵は、世の法則を無視して、皿の上で蠢いていたりもする(笑)

 そうそう、変な泡までブクブクと吹いてたりするんだよな。怖い怖い。


 なに? ……九条 葵は、どうかって?

 ナイナイ。あり得ないにも程がある。『完璧』の化身のような彼女が、そんな分かりやすいポンコツ属性を、持っていると思うか? そっちの方がありえないだろう。

 

 俺が、そんな一人漫談を心の中で必死に講じている間にも。

 彼女は、このモノトーンの部屋に、これまた見事にビルトインされたお洒落すぎるキッチンに立ち、冷蔵庫を開けた。


「何が食べたいとか、ある?」

「え!? いや、何でもいいよ」

「そう。じゃあ、パスタでもいいかしら?」

 

 パスタ! いいじゃないか、簡単で美味い。俺もよく作るよ。

 ペペロンチーノ? カルボナーラ?

 いや、ここは、王道のミートソースも捨て難いぞ……挽肉がこれでもかと、ゴロゴロ入ってるのが肉肉しくて良いんだよな。

 ああでも、ナポリタンも捨てがたい。

 口をケチャップ塗れにして食べるのが、またいいんだ。


「美味しそうだ」

 想像するだけで、お腹が減ってくる。

 

 突如、膨張し始める『肉食』への期待。

 これは育ち盛りの男子高校生として、あまりにも真っ当すぎる夢、渇望といっていいかも。ましてや、ここしばらくは質素な病院食が続いていたからなあ。


 そんな俺の切実な望みなど知る由もなく、九条さんは、冷蔵庫から次々と、色鮮やかな『何か』を取り出していく。

 アスパラガス。スナップエンドウ。春キャベツ。菜の花……。

 

 ……あれ? 待って肉は? 肉はどこだ? 

 ベーコンの一枚すら、見当たらないぞ?


 彼女はそれらの野菜を、流れるような、一切無駄のない所作で刻んでいく。フライパンを煽る姿すら、どこかの雑誌のワンシーンを切り取ったみたいに完璧だ。

 キッチンに広がるのは、茹でた麺の香りと、春の、青々とした芳香のみ。

 ……うん。青々としすぎている。


 やがて、俺の前に差し出されたのは、白く、大きな皿。

 そこにあったのは──俺の知っているパスタではなくて。何て言うか、麺よりも野菜の方が圧倒的に多いというシロモノ。

 

 えっと、九条さんや。これは、所謂パスタという名の付いた、サラダなのではないかい?


 あまりにもヘルシーすぎた『緑色の皿』を前に軽く絶句していると、彼女は、さも当然、という顔で、俺の向かいの席にそっと腰を下ろす。

「……食べないの?」

「あ、いや、食べる。食べるけど……」


 彼女の純粋な視線を感じながら、左手の、かろうじて動く指でフォークを握りしめた。そうだ。パスタ程度なら、この手でも食べられるはず。

 可能な限り自分のことは、自分でやらないと。これ以上、彼女の負担を増やすわけにはいかない。

 

 己の尊厳全てをかけて、そのパスタ(という名のサラダ)を、必死に巻き取ろうとした。

 ──だが、巻けない!

 指二本では力が入らず、おまけに痛くて、フォークが綺麗に回せない。

 


 アスパラガスを一本、なんとか突き刺し、麺を数本、無理やり絡ませてみる。

 そのまま『塊』を不格好に、口へと運んだ。右腕はギプスにくるまれた、ただの重りでしかなく、食事に手を添える、などという上品な所作は期待できそうにない。


 苦難と共に味わった、その味は。

「え? ……美味っ!?」

 

 思わず、声が漏れるほど。

 シャキシャキとした野菜の歯ごたえ。アルデンテに仕上がった麺が負けていない。

 悔しいが、文句のつけようがないほど、美味い。


「そ、そう。ありがとう」

 俺が、その文句なしの美味さに、不自由な左手で再び格闘していた、その時だった。

「……あ」

 目の前の彼女が、小さな声を上げる

 視線を落とすと、どうやら俺の不器用な手元が、一筋のパスタを、テーブルの上へと落としてしまっていたらしい。


「……もう。見ていられないわ」

 

 彼女はくすり、と。

 昨日見せてくれた、例のどうしようもなく甘い笑顔で笑うんだ。

 セリフと表情が、あっていなさすぎると思わないか?

 

 すると今度は、自分の皿にあるパスタを、自分のフォークでくるくると器用に巻き取った。

「え、ちょ……」

 彼女はそのフォークを、テーブル越しに俺の口元に、そっと差し出す。

 吸い込まれそうなほど澄んだ瞳には、「ほら、あーんして」とでも言いたげな、悪戯っぽい光を宿らせて。


「はい、どうぞ」

 俺は観念して、口を開け……ようとして、寸前で踏みとどまった。

 

 待て、待て、待て。いま、彼女が差し出しているフォークって。さっきまで彼女の唇が触れていたやつ、だよな……? だろ?

 こ、これって、世に言う、『間接キスイベント』ってやつじゃ、ないのか!?

 しかも、九条 葵と!?


「……どうしたの? 早くしてくれないと、腕が辛いのだけど」

「いや、だって、これって……」

 

 俺の葛藤を見透かしたように、彼女は僅かに首を傾げて、とどめを刺してくる。

「いや、なの?」

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