第16話 ただ一つの開けてはいけない扉
「水無月くん、ホント、遠慮しないで」
「じゃあ、お邪魔します」
一歩足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。彼女自身の甘い香りだけではない、どこか無機質で、よそよそしい新築の匂いが混じる。
そこは、『部屋』と呼ぶには、あまりにもお洒落すぎた。
壁も、床も、それを飾るマットも、全てが白と黒。それに灰を合わせたモノトーン基調で統一されている。
人の息遣いや、雑多な温もりといった、『生活』の痕跡がまるで見当たらない。あるのは、彼女の美学そのものが形を成したかのような、絶対的で、静謐な秩序だけだった。
「……すごい、部屋だね」
「そう? 何もないだけよ。とりあえず、座って。疲れたでしょう」
彼女に促されたのは、リビングに置かれた黒い革張りのソファ。
二人掛けだろうか。俺がその端に恐る恐る腰を下ろすと、彼女はごく自然に、その隣に腰を下ろしてくる。
えっと、はっきり言って、近い。
さっきのタクシーなんて目じゃないほど、もっと近い。
彼女の体温や、かすかな息遣いさえ伝わってきそうな、そんなギリギリのライン。
……これって、あえてこちら側に寄せてないか? そう勘ぐってしまうほどに、俺の心臓が、この距離に抗議するかのように、やかましく鳴り響いていた。
ごめんな、俺の心臓。最近とても忙しいよな……。
「あの、九条さん」
「なに?」
「いや、その……俺の荷物のこと、なんだけどさ」
俺が慌てて本題を切り出すと、彼女は「ああ、それね」と、目の前のローテーブルに、視線を落とした。そして、テーブルの下に組み込まれた小さな棚を開けて、一本の、真新しい鍵を取り出す。
カチャリ、と。硬質な音を立てて、それが俺の前のローテーブルに置かれる。
続けて、あの黒いカードキーも、その隣にそっと添えられた。
「これ、あなたのものだから」
「……は?」
それは、どう見ても、俺の部屋の古びた鍵ではなかった。間違いなく、この真新しいデザイナーズマンションの、電子キーと鍵そのものだろう。
「九条さん、意味がわからないよ……」
彼女は俺の目を、真っ直ぐに見つめ返す。
その瞳には、なぜか一切の迷いも、動揺もない。決意だけが強く宿った瞳だ。
「ここが、今日から、あなたの家よ」
家? 何を言っている? 悪い夢でも見ているのだろうか。
それとも気でも触れたか?
……いや、触れたのは俺の方か?
たまに意味のわからないことを言うのは、最近知った。けれど、今回のは格別すぎる。もはや次元が違う。
俺の家は目と鼻の先にある、あのオンボロマンションだ。
それ以外に、ありはしない。
彼女の言葉の意味を、ミリグラム単位でさえ理解できないまま、呆然と固まっていると。
彼女は、
「……ちょっと、待っててね」
と、呆気にとられる俺を残し、そっと席を立ってしまう。
彼女はリビングの奥にある、もう一つのドアを開け、中へと消えていく。
すぐに戻ってきた彼女が、その両手に抱えていたものを見て、俺はもう、驚くことすら忘れていたよ。
一つは、真新しい、聖諒学院高等部の男子生徒用の制服で。
もう一つは、同じく、タグが付いたままの真新しい通学鞄。
彼女は、その二つを目の前のローテーブルの上にそっと置いた。そして、今、初めて、心の底から申し訳なさそうに、俯きがちに、こう呟いた。
「ごめんなさい。水無月くんが着ていた制服……事故のせいで、その、破れて、血もたくさんついてて……」
彼女の声が、痛々しく震える。
「もう、着られないって、言われたから……」
それを聞いて、俺は何も言えなくなる。
そうだった。俺は確かに事故に遭ったんだ。俺の、唯一の『日常』の象徴だった、あの制服も、鞄も、教科書やノートの類も。全部が、無事でいれるはずがないのだ。
あの瞬間全てが、ダメになっていたんだ。
痛む体を引きずりながら。
不自由なこの左手だけで、失った生活必需品の全てを、俺は一人で買い揃え、新しい日常への準備を、進めなければならなかったはずだよな。
それが、俺が退院した瞬間に直面するはずだった、あまりにも現実的で、どうしようもない『絶望』。
いや、入院中ですらか。
それすらも、彼女は。
俺がその『絶望』に気づくよりも遥か前に、先回りして、解決してくれていた。
だからかなのか? この、どこまでも優しくて、どこまでも健気な。
そして、どこかとてつもない重さを感じさせる思いやりを前にして、違和感を感じつつも。俺は、ただ、なすがままになることを選んでしまうのは。
──それは、我が身の不自由さが選んだ、ゆえか。
俺が彼女に屈したのではない。この、どうしようもない『状況』に屈したのだと。
そう思い込みたい、唯一のエクスキューズ。
それとも。希代の美女が張り巡らせた、その『献身』という名の、抗いがたい『魅力』の網に俺はもう、囚われ始めているのかも、しれないな。
「水無月くん、ちょっとこっちに来てくれる?」
そんな堂々巡りの思考は、彼女の静かな声によって中断された。
彼女が手招きしているのは、リビングの奥。
さっき、彼女が制服一式を抱えて出てきた、あのドアだ。
促されるまま中へと入ると、そこはウォークインクローゼットのようで。
壁一面に、彼女の洋服や、バッグといった身の回りの品々が、まるで高級ブティックのように、綺麗に収納されている。
その、一角。
俺のために用意された、真新しい聖諒学院高等部の制服が、ハンガーに掛けられている。
「ここ、自由につかってくれていいから。新しい制服も掛けておくわね」
彼女が差すその下には、真新しい通学カバンと、ご丁寧に、ビニールに包まれたままの新品の教科書までが、一式揃えられていた。
「それと、一応とっておいたのだけど、これ」
そうして見せてくれたのが、大きな袋にまとめられた、俺が以前着ていた──「はず」の、制服や鞄だった。
正直言って、俺は声を失ったよ。
それは、もはや『服』と呼べるシロモノではなかったから。
無残に擦り切れ、引き裂かれ。
乾いた血痕が、その濃紺の生地と白いシャツを、おぞましい色合いに染め上げている。
「……こんな、ひどい有様だったのか」
「わかって、くれた?」
「うん……」
声を詰まらせる俺に、彼女は、その声に確かな痛みを滲ませて、こう尋ねた。
「……捨てても、いいよね?」
「……うん。お願いします」
その惨状を見て、改めて、彼女がここまで用意してくれていたことへの、感謝の念が芽生えてくる。
「この家のありとあらゆるものは、使ってくれて構わないわ。貴方が見たいというなら、そこの棚も、ううん、引き出しという引き出し全て開けてくれても大丈夫」
「ど、どういう意味だよ」
「そのままの意味よ。私が貴方に隠すことなんて、何もないわ」
「よく、わからないけど。わかった」
「ただし」
彼女は部屋の隅にあるもう一つの、一回り小さな収納扉を指差した。 その扉だけが、このモノトーンの部屋の中で一際、異質な存在感を放っている気がした。
「ひとつだけ例外があるの。あの扉だけは、開けないで」
「……わかったよ。別に、開けはしないけど、どうしてか聞いていい?」
俺の問いに、彼女は少しだけ視線を泳がせる。
そして、いつもの完璧な仮面を纏うと、こう答えた。
「この中には、私の……そうね、仕事関係の大事なものが入ってるから。契約書とか、そういう類の」
「ふうん」
「だから、もし見られてしまうと、事務所との契約上、まずいの。そうなったら、私は──」
彼女はそこで一度、言葉を切る。
そして、俺の目を真っ直ぐに見つめて、こう続けた。
「水無月くんと、こうして一緒に住めなくなってしまうから」




