第15話 囚われの主人公?
九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~
第二章、突如始まる、秘密で甘い同居生活
今しがた、彼女が投下した爆弾の、その本当の意味を必死で反芻する。
財布も、家の鍵も、全て彼女の家にあるだって? そりゃ、病室のクローゼットの中をいくら探したって、何も見つからないはずだよ。俺が『ありきたりな日常』に戻るための全てのキーアイテムは、最初から彼女の手の内だったなんて……!
落ち着け、蒼。思考を整理しろ。
それにしたって、いつの間に俺の鍵や財布を?
なるほど、事故の当日か。車に衝突してからしばらく、彼女が俺の荷物全てを代わりに受け取ってくれたのだろう。うん、そう考えれば全てに納得がいく。
だとしたら問題は別だ。
なぜ、今この『退院する』というタイミングで言うんだ? まさか、俺が家に帰れないように、わざと……?
……馬鹿らしい、さすがに飛躍しすぎだ。
あの九条 葵が、俺を家に連れ込んだところで、何の得があるというのだ? 何もないどころか、むしろ彼女のモデルという側面を考えたらマイナスでしかないはず。
なおさら意味が分からない。
なら、ただの親切だとでも?
それにしては、やり方が少々強引すぎる。
問題は、そこだけじゃあない。
あの九条 葵の家に、これから俺がお邪魔するのもそう。
ごくり、と。乾いた喉が、音を立てて鳴った。
彼女の行動の意味が分からず、底知れない不安を感じる一方で、胸の奥が、あり得ない期待で高鳴っているのも、また事実だった。
ぶっちぎりで学校一の美女。俺が知る限り、同世代で彼女を超える存在はいない。
まさに、遠くから眺めるだけの存在。
望んでも、友達にすらなれない連中がごまんといるのに。
その聖域に……有象無象の一人に過ぎないはずの、この俺が入る、のか?
呆然と立ち尽くす前で、九条さんは、さも当然という顔で、ロータリーに滑り込んできたタクシーのドアを開けた。そんな動作一つとっても絵になる存在。
それが、振り帰り際にこう告げるんだ。
「……だから、諦めて私についてきてね」
「わ、わかったよ……」
俺にそもそも、拒否権というものは存在しないらしい。
自分から拉致されに行く阿呆、それが俺……。
彼女はまず、するりと先に車内へと滑り込み、奥の席へと移動した。
俺のために、ドアに近い側を空けてくれたのだろう。小さな気遣いに何も言えないまま、不自由な体でどうにか後部座席へと体を収めた。
「こちらに、お願いします」
彼女はそのまま、運転席との仕切りに向かって、小さく折り畳んだメモのようなものを差し出す。運転手は、それに無言で頷いた。
狭い車内に漂う、彼女の香り──フローラルとフルーティーが織り成す仄かに甘く優しい世界と、息の詰まるような沈黙界。
俺は、その対比に耐えかねるように、先に口を開く。
「……九条さん」
「なに?」
「じゃあ、俺の制服とか、鞄とかも全部、九条さんが?」
「そうね、全部ではないけれども」
彼女は窓の外を見つめたまま、平坦な声で答える。
その横顔からは、何の感情も読み取れない。
「着いたら、ちゃんと説明するわ」
彼女が時折見せる、有無を言わせぬ雰囲気。
完璧な『壁』のような一面。
それはつまり、「今は、それ以上聞くな」という、無言の圧力なのかも。そう考えると俺は、それ以上、何も言えなくなってしまった。
こうなればもう、車窓から流れていく見慣れない景色を、ぼんやりと眺めるしかないわけで。
……眺める、しか。
……ん?
思考が軽く混乱する。
見慣れないと決めつけていたはずの景色。なのに、なんだか妙に、見覚えがあるような。
「えと、九条さん」
「……今度は、なに?」
彼女の声が、先ほどよりも少しだけ、硬質になった気がした。
「まさか、とは思うけど。俺の家に向かってるわけじゃ、ないよね?」
その瞬間、彼女の肩がほんのわずかに強張った。
「どうして、そんなことを聞くの?」
「いや、なんだか自分の家に凄く近い気がしてさ」
気のせいじゃないよ。だって、ほら。
見覚えのあるあの角のコンビニ。その隣のくたびれた暖簾が掛かった古い定食屋。どれもこれも、俺が住んでるワンルームマンションの、ご近所様じゃないか。
やがてタクシーは、俺の部屋があるマンションをあっさりと通り過ぎ──通り過ぎるんかい!
その、目と鼻の先にある、真新しいコンクリート打ちっぱなしの、いかにもお高いデザイナーズマンションの前で、静かに、止まった。
えっと、あれが、俺の家だよな……。
俺は呆然と、その、あまりにも近すぎる距離を見つめている。
「嘘だろ……すごい偶然も、あるものだ……。こんな近くに住んでただなんて」
俺のその呟きに。彼女は髪をかき上げるフリをしながら、必死に、俺から顔をそむけて、こう言った。
「そ、そうなの? 珍しいことも、あるものね」
うーん。……棒読みにも程があるような。
俺の、そんな内なるツッコミなど、彼女に届くはずもなく。
彼女は先にさっさとタクシーを逆から降りると、俺が降りるのを、ドアの横で待ってくれている。それから俺の降りるタイミングに併せて、そっと手を差し出してくれるんだ。
その姿はもういつもの、完璧な『高嶺の花子』さんに戻っている。
痛む体を堪えて、どうにか車を降りると、彼女の後に続いた。
目の前にそびえ立つコンクリート打ちっぱなしの、いかにも『お洒落』なマンション。俺が住む、あの築三十年のワンルームとは分類からして違う、別世界の建造物みたいだ。
彼女はエントランスの自動ドアの前で、一枚の黒いカードキーをかざす。
ウィーン、と。重厚なガラスのドアが滑るように開いた。
やや緊張気味に一歩、足を踏み入れる。
すると、中には。どこか冷たく、研ぎ澄まされた空間が広がっていて。俺に言わせると、これこそがまさに異世界だと思えたよ。
なにもファンタジーばかりが、異世界じゃないよな。
壁は真っ白な石材で統一され、床は、大理石のように艶やかな光を放っている。
ル・コルビジェ風のソファが二脚、ミニマルに飾り立てられているロビーは、華美なようでいて、そうではない美しさを誇る。
このロビー全体が、これでもかと建物の『格』を雄弁に物語っている。
「これは、すごい」
「そう?」
これが君の日常なんだろうさ。
だけど、この空間が放つ『無言の圧』が、俺なんかがいていい場所じゃないと、静かに語りかけてくるようで、落ち着かない。
彼女は迷いのない足取りで、奥にあるエレベーターへと向かう。
乗り込んだエレベーターのパネル上部には、安全のためか、内部の様子を映し出す小さなモニターまで付いていた。
そこに俯瞰するように映る、俺たち二人の姿が、なんだかひどく滑稽に見える。美しい立ち姿と、完璧な私服姿で、真っ直ぐに扉を見つめる君と。
その隣で右腕をギプスで吊り、借り物の服でどこか落ち着かない俺がいた。
なんとも、不釣り合いな二人じゃないか。
とんでもないセキュリティに、この絵面を監視されているかと思うと、どうにも可笑しくて。俺は、思わず。
「ぷっ」と息を、漏らす。
しまった、と思った時には、もう遅い。
それまで無言で扉を見つめていた彼女が、ぴくりと肩を震わせ、ゆっくりとこちらを向いた。
「……どうしたの?」
俺は、慌てて咳払いでごまかす。
「いやぁ、あのモニター見てたら、俺たち、どこまでも不釣り合いだなと思ってね」
それは、半分は照れ隠しで、半分は、どうしようもない本音の言葉。
俺のその、自嘲気味な言葉に。彼女は少しだけ目を伏せると。消え入りそうな声で、こう呟いた。
「……そんな、ことない」
「え……?」
その言葉の真意を問い返す間もなく。
僅かな振動が、目的の階へ到着したことを知らせる。
最上階の一つ手前で、扉が開かれた。
静かなる内廊下。彼女は、その一番奥の部屋の前で、再びカードキーをかざす。
カチャリ、と重く、静かな電子ロックの開錠音が鳴った。
「どうぞ。入って、水無月くん」
とうとう、来てしまった。この瞬間が。
メッセージアプリで繋がり、彼女の番号まで知り得て。そして、いま『聖域』の扉の前に立っている。……これは、夢か現か。それとも幻か
促されるまま、俺はその部屋へと足を踏み入れる。
ハハ、まるで夢遊病者のように、足が勝手に動いてしまったよ。
なんで俺が、こんな現実離れした場所に。
……そう、思わなくもない。だけど、この急すぎる展開への戸惑いとは裏腹に、俺の心の最も浅ましくて正直な部分が、あり得ないほどの高揚感で叫んでいた。
これって、もしかして、とんでもない快挙なんじゃないか?
聖諒学院高等部の男子生徒の中で、この『鉄壁の九条 葵』の部屋に足を踏み入れた、最初の男。
そう、何を隠そう、この俺が!
浅ましくも不謹慎なまでの優越感が、今はどうしようもなく胸に心地よかった。
ああ、健太ァ……。
お前に、この勝利を自慢してぇ。




