約14話 高嶺の花子さんと、その他大勢に還るとき
──思考は、その柔らかすぎる感触と、甘すぎる匂いの中へ置き去りに。
いま、何が起きた?
まだ全身に、彼女の余韻が残っている。そんな気がする。
背が高い彼女は、目線も俺とあまり変わらない。
そんな彼女の視線が、俺の、その、だらしなく開けっ放しになっていたズボンへと向けられる。それだけは分かる。
「……ボタン、まだね」
あ……ああ。あああああああ。
ちょ、ちょっと待って!
そこは、この世で一番触れられたくもあり、触られたくない場所でもある。
俺が、声にならない悲鳴を上げていると、彼女は何の躊躇いもなく、俺の目の前にそっと膝をついた。
その、吸い込まれそうなほど澄んだ切れ長の瞳が、俺を真っ直ぐに見上げている。
「じっとしてて」
そ、その姿勢は。
彼女の頭が、俺のどうしようもない部分に近すぎて。
ええい、ままよと。
俺は目を固く、強く閉じるしかない。
もう、どうにでもなれの精神で。
ひんやりとした彼女の指先が、俺のシャツの裾を掴む。
そしてその手を、俺のズボンの内側へと、ためらいなく滑り込ませた。
「え、ちょ、まっ……」
素肌のすぐ上。無防備な場所を、彼女の細い指が這うように舐めていく。
そうして丁寧に、シャツの裾をズボンの中へと収めていくから。彼女が動くたびに髪が揺れて、甘いシャンプーの匂いが届いて。
……あまりにも近すぎる距離。あまりにも、あまりにも……!
俺は羞恥と、それとは全く別のどうしようもない感情の奔流で、どうにかなりそうだった。
やがて、彼女は満足したように頷くと、今度はズボンのボタンに手をかける。カチリと。小さな音が、やけに大きく聞こえるんだ。
そして、そのままゆっくりと、チャックが引き上げられていく。
その金属の軌跡が、スローモーションのように感じられるよ。
頼むから、早く終わってくれ。絶対に、何も起こってくれるな。
とにかく、とにかく反応しませんように、と。
ただ、それだけを一心に願った。いるかどうかも分からぬ、神とやらに。
「……あとは、これね」
彼女は立ち上がると、何事もなかったかのように、ベッドの上のアウターを手に取った。
銀色のジッパーやボタンがアクセントとして映える、格好いい濃紺のアウター。
そうして言われるがままに左腕を通す。彼女が、そっとアウターを背中に回し、痛む肋骨に気を付けながら、一生懸命に右腕のギプスを袖に通してくれている。
九条 葵さんか……。
まいったな。本当にいい子だよな。
こんなにも綺麗で、あれほど完璧で、俺なんかが逆立ちしたって手に入らないものを、全て持っているはずの女性が。ただの『事故』という理由だけで、ここまでしてくれるものだろうか。
……もしかして、なんて。
そんな、ありもしない奇跡を、期待したくもなる。
俺に、彼女が振り向くような『何か』なんて、何一つ持ちえないと、分かってはいても。
彼女は満足そうに、一歩下がって俺の姿を眺める。
「はい、おしまい。良く似合ってるわよ」
「そ、そうかな。……ありがとう」
似合ってる、か。
彼女が、俺のあの拙い言葉をちゃんと受け止めて、そして、こんな形で「返して」くれたのだと。
その心が、どうしようもなく嬉しかった。
「それじゃあ、行きましょうか」
「ああ、そうだね」
俺たちは病室を出て、まずはナースステーションへと向かう。
「入院中、お世話になりました」
ギプスで吊られた右腕に気を遣い、痛む肋骨に顔を歪めつつ、不自由な体を器用に曲げて頭を下げる。すると、カウンターの奥からひょっこりと、あの看護師さんが顔を出した。
そう、あの酒々井さんだ。
「あら、水無月くん。退院おめでとう! 良かったねぇ」
そして俺の隣に立つ、完璧な私服姿の九条さんを見て、酒々井さんは、またあの『生温かい目』でニヤリと笑うんだ。
「お見送り、彼女さん? ほんと、仲がいいんだから。青春よねぇ」
「ち、違いますって!」
「あ、はい……どうも……」
俺と九条さんの、絶妙に噛み合わない言葉。それを酒々井さんはくすくすと笑いながら、楽しそうに聞いている。
「まあ、いいわ。とにかく、また帰ってくることがないように、事故にだけは気をつけてね」
「はい、では失礼します。本当にありがとうございました」
他のスタッフさんに見つからないよう、小さく手を振る酒々井さんに見送られ、俺たちはナースステーションを後にした。
ふと、隣に視線を移した時、俺は見てしまった。
隣を歩く九条さんの顔からふっと、全ての表情が抜け落ちているのを。
和やかだった空気を拒絶するかのような、冷徹な『仮面』が、ふたたびその美しい顔に嵌め込まれたかのようで。
……まだ、気にしているのだろうか。
一瞬だけ垣間見えた気がした、彼女の『影』のカタチ。
その本当の理由なんて、今の俺に、分かるはずもない。
エレベーターに乗り込み、一階のボタンが押される。
箱が、静かに揺れ始めた。
その密室の中、重苦しい沈黙が二人を包み込む。
九条さんが、正面の扉にぼんやり反射する俺の姿を見つめたまま、氷のように冷たい声で、呟いた。
「……水無月くんは」
「え?」
「ああいう、胸が大きい女性が、好きなの?」
「は……? ああいう、って……酒々井さんのこと?」
「さあ。どうかしら」
スッ……と、その反射から視線を外す彼女。
彼女の言葉の真意を全く理解できないまま、ただ呆然と、その『仮面』を見つめ返すことしかできなかった。
『一階です』という合成音声が鳴り、エレベーターは一階へと到着する。
扉が開くと同時に、数日ぶりに触れる日常の喧騒が、なだれ込んできた。見舞い客と患者、白衣のスタッフがせわしなくすれ違う、ざわめきと足音。そんな騒がしさの中を、俺たちは黙って通り抜けていく。
病院玄関の大きな自動ドアを抜け、数日ぶりに味わう外の空気は、少しだけ冷たくて、何だかとても懐かしい『日常』の味がした。
もう、これで全てが終わったのだと──
ほんの数日交錯した、君と俺の物語は、これでおしまい。
明日からは、またあの、一人きりの、誰にも干渉されない自由な日々に戻るのだと。そう、信じて疑わなかった。
病院の玄関口で、俺は真っ直ぐに彼女へと向き直る。そして、この入院生活でおそらく、最も真剣な面持ちで深々と頭を下げた。
心からの、感謝を込めて。
「九条さん、今までありがとう。本当に、助かった」
俺が告げた、ある意味での『別れ』の言葉。それを聞いた彼女は、
「え……?」と。
鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、俺を見つめ返している。そんな顔も可愛いと思ってしまうけど、今はそうじゃない。
彼女が浮かべた戸惑いの表情をあえて振り切り、最も重要な宣言を、キリリと告げた。
「洋服代とスマートフォン代は、必ず返すよ。……それじゃあ俺、こっちだから。じゃ! 九条さんも気をつけて、学校でもよろしく」
踵を返し、自分のワンルームへと続く道へ、その一歩を踏み出す。これで、ひと区切りだ。
……怪我したとはいえ、ホント、楽しかったよな。この数日。
学校でまた彼女に会える日が、今から楽しみだよ。願わくば、ほんの少しでいい。この非日常が、俺たちの関係を少しでも進展させてくれていますように──
「え、あの……蒼くん?」
背後からの戸惑いに満ちた声が、俺を呼び止める。
ありえない『下の名前』での呼び方に、一瞬、足がもつれそうになりながら。
「ん? まだ何かあった?」
俺が、慌てて振り返ると。
彼女はどこまでも不思議そうに。小首を傾げたままとんでもない爆弾を、そっと投下した。
「いえ、そうではなくて」
「うん?」
「貴方の財布も、家の鍵も、全て私の家にあるのだけど……」
は?
…………。
…………。
なんだって?
「ええええええっ!?」
このドデカい大病院のロータリーで、今一番注目を浴びているのは、とてつもない美貌を誇る完璧な九条さんではなくて、素っ頓狂な声を上げている俺かもしれない。
九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~
─ 第一章、始まりは突然に、完 ─
~あとがき~
第14話、最後までお読みいただき、ありがとうございます。作者の神崎 水花です。
そして、本話をもって第一章『始まりは突然に』これにて完結です。ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
退院だ! やっと日常に戻れる! 本心から思っているのかは置いておいて。蒼がキリリと「洋服代とスマートフォン代は、必ず返す!」と、格好良く(彼の中では)別れを告げた瞬間……全てが壮大なフリになってしまいましたね(笑)
「貴方の財布も、家の鍵も、全て私の家にあるのだけど……」
九条さんの、あの一言で蒼の日常復帰は完全に断たれました。たぶん。彼の絶叫が聞こえてくるようです。病院での生活が終わり、次回からはついに第二章『突如始まる、秘密で甘い(時々痛い)同居生活』がスタートします。
「一章おもしろかったよ」「二章楽しみにしているぞ」と、ほんの少しでも思っていただけましたら、ぜひ下の「☆☆☆☆☆」を「★★★★★」に変えて、本作の応援していただけると嬉しいです。
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