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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第一章 始まりは突然に

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第13話 ……It's kind of cute.

 かくして、日曜の朝がやってくる。

 それは、この奇妙な入院生活が終わりを迎える日でもあった。

 

 ようやく、あの退屈でありふれた日常に戻れるのだと、この時の俺はまだ本気でそう思っていた。まさか、この退院が『変わらない日常への帰還』ではなく、『超弩級の非日常への片道切符』だったなんて、夢にも思わないだろ。

 そう、これこそまさに……俺の輝かしい悲喜劇(トラジコメディ)の幕開けである。


 時刻は、午前九時を少し回ったところか。

 通常の面会が始まるには、まだ随分と早い。

 そんな静けさの中を、まるで時報のように、控えめなノックの音が響いた。


 もう慣れたもので。

 俺が返事をするより早く、スライドドアが滑らかに開かれてゆく。

「水無月くん、おはよう」

 

 来た。二日連続の、二度目の私服姿よ。

 フィットした黒いパンツに、灰色の、柔らかなファーのベストがとても似合っている。そのパンツは、彼女の完璧な脚のラインをなぞり、裾だけがラッパのように優雅に広がっていた。

 昨日とはまた違う、洗練された様相に感嘆の息が漏れる。完璧な彼女の、完璧な着こなしを見て慣れてしまう日なんて、この俺にやってくるのだろうか。

 

 おっと、この光景が続くという保証など、どこにも無かったか。

 この奇跡のような非日常が終われば、俺と彼女の関係も、またあの教室のどうしようもない日常に還るだけ。

 ──高嶺の花子さんと、その他大勢の一人に。


 なら、最後くらい、正直になってみるか!

 

「おはよう。九条さんは、いつもお洒落だね。とても良く似合ってるよ」

「え、ど、どうしたの?」

 その声は、以前までの彼女からは想像もつかないほど、上擦っていた。

 

「いやぁ、今日帰れると思うと、なんだか全てが新鮮でありがたくて」

 そして、さようなら。

 俺と君の、この奇妙で温かな入院生活。

 本当に、本当に楽しかったよ。

 

「そ、そうなのね。まあでも、機嫌がいいのは良いことよ。……別に、いつもそうだといい、とか、思ってないわ」


 ぷいっ、と顔をそむける彼女の、その耳がまたしても赤く染まっているのを、俺は見逃さなかった。どうやら、彼女の機嫌も俺と同じくらいには良いらしい。

 よかった。最後くらいは気持ちよく終わりたいよ。


 解け始めた空気の中を、彼女はふと我に返ったように、持っていた大きな紙袋をベッドの上に置いてみせた。

「そうだった。水無月くん、私はいまから退院の手続きを済ませてくるから、これに着替えててくれる?」


「これって……」

 紙袋の中には、綺麗に畳まれた新品の洋服が、一式。

「九条さん、これ、まさかわざわざ……」

 その問いに、彼女は心の底から不思議そうに、小首を傾げた。


「だって、裸で帰る訳にはいかないでしょう?」

 確かにそうだけど、それはあまりにも論点がズレてやしないかい? 服まで君に頼る訳にはいかないだろ……。

 そもそも、俺の制服はどこへ行ってしまったのやら。


 言葉を失っている間に、彼女はほんの少しだけ照れたように、目を伏せる。

「……それに。わざわざ買ってきたのだから、着てくれる方が、服も、私も、嬉しいかな」

 

「じ、じゃあ、そういうわけだから、よろしくね」

「わかった」

 彼女は病室を出る直前、緩やかにこちらに振り返ると、その薄い唇から俺の想像を超えた一撃を、そっと置いていくから堪らない。

「着れないようなら、戻ったら手伝うから。無理しないでね」


「……うん」


 パフン、と。

 頼りないはずのドアの閉まる音が、俺の処刑宣告のように、やけに大きい。

 ベッドの上に置かれた真新しい服の山と、自分の不自由な体を見比べてみる。彼女の最後の一言だけが、まるで耳の奥にこびりついたかのように、離れない。

 

 手伝う……だって?

 俺の着替えを、あの九条 葵がか!?

 冗談じゃない。冗談じゃ、ないぞ……看護師さんならまだしも、同じクラスの、しかもよりによって一番意識している相手にだと?

 情けない下着姿を堂々と晒した挙句、ズボンを履かせてもらうのか?

 そんな生き地獄が、あってたまるか!

 

 高校男児のちっぽけな、しかし何よりも大切な尊厳が、今ここで試されている。俺は思わず、無事な左手で顔を覆った。

 そして、今までで一番長くて大きな息を吐いた。

 

 何を置いても、まずはズボンだ!

 上はまだいいさ。最悪、裸でも何とかなる。だが、下は駄目だろ。

 パンツ一丁と靴下だけの姿がどれだけか。未処理のすね毛がシュールすぎるだろ。それだけは、何があっても死守せねばならない。それが俺の守るべき絶対防衛ラインだ。

 死んでも譲る気などないッ!


 俺は、謎の使命感に真っ赤に燃えながら、ベッドの傍らで、人生で最も困難な着替えへと挑み始めた。

 

 ミッション開始。

 片足で必死にバランスを取りながら、不自由な左手でどうにか、よれたパジャマ(患者衣)のズボンを引きずり下ろすことに成功する。そして、彼女が買ってきたであろう、真新しい黒のズボンに足を通そうとして──苦戦する。

 左手の親指と人差し指、その二本で、少しづつ布地を引き上げるしかないのだ。右を上げては左を上げ、左を上げては……ええい、まどろっこしい!


 とりあえず、下着さえ隠せればいい。

 俺は、どうにかズボンを腰まで引き上げる。ボタンとチャックは後だ。

 ふう、とりあえず、最大の難関はクリアできたと思う。

 あとは、この黒いシャツだな。

 

「ようし」

 左袖に、まず不自由な左手を通してみる。

 それからシャツを頭から被り、右袖に、あの憎きギプスを通そうと必死にもがいてみた。だけどギプスが、絶妙に袖口に引っかかって通らないんだ。

 通らないんだよ!


「……っ、くそが……!」

 焦れば焦るほど、布は腕と頭に絡みつく。シャツが中途半端に上半身に覆いかぶさったままの、あまりにも情けない姿で、身動きが取れなくなってしまっていた。

 

 ガラッ、と。

 今度はノックもなしに、スライドドアが開く音がする。

「水無月くん、手続き、終わったわよ。早か……」


 彼女のどこか弾んだ声が、途中でぴたりと止まる。

 当然俺も、固まる。

 暗中に一人、彼女がそこに呆然と立ち尽くしているであろう、その気配だけを感じながら。

 

 ああ、そこにはきっと……ズボンは半開き、上半身は半裸のまま黒いシャツに頭ごと捕食され、もがき絡まっている。あまりにも無様な同級生の姿が、あったはずで。

 終わった、と。心の底から思ったよ。

 よりによって、何でこんなポーズなんだよぅ(泣)

 もうちょっと、あるだろう!


 なのに、ふわっ、と。

 それこそ何の、前触れもなく。

 俺の無様な体ごと、柔らかくて温かい何かが、包み込んでくれた。ふわりと香る、甘い匂い。胸にあたる格別に柔らかい何かが。

 そして耳元で吐息のような、か細い声が鳴った。


 「……It's kind of cute.(なんだか、かわいい……)」


 俺の思考は今度こそ、完全に停止した。

 いま何が、起きた?

 今のは英語か?


 数秒にも、永遠にも感じられた時の中で。

 温もりが慌てたように、さっと離れていく。

 

「えい」、と。

 不意に彼女の手が、俺の頭に絡まったシャツを掴んで、まるで掛け声でもかけるかのように軽やかに引き抜いてくれる。

 急に視界が、クリアになる。

 目の前にいた九条さんはなぜか、俺からぷいっと顔をそむけ、真っ赤になった耳を隠すように、髪をかき上げながらこう言った。

 

「……やっぱり、一人じゃ難しかったみたいね」

 その声は、震えてなどいない。

 ただ、ひどく、優しかった。

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