第2章 第1話 心理戦
『ごめんねこーくん……。おとうさまに相談してみたんだけど、警察が助けるのは難しいんだって……』
それは遠い記憶。非日常の日常に塗り潰されてしまった、ずっといたかった場所の思い出。もう二度と手に入らないと諦めていた記憶が蘇ってくる。
『虐待のしょーこ、とか。反省したフリをすればすぐに元通りになっちゃう、とか。なんかいろいろなじじょー? があって、警察が動くとこーくんがもっとひどいめにあっちゃうかもしれないんだって』
話すようになったきっかけはよく覚えていないが、たぶん憐れみだと思う。家族全員が警察幹部という超警察一家の娘として正義感に満ち溢れていた藍羽は、親から虐待を受けていた俺を小学生ながらに何とか助け出そうとしてくれていた。
『しょうがないよ。虐待って言っても時々殴られるとか、家事を全部やらされるとか、その程度だから。それにお父さんもお母さんも隠すのは上手だし、警察が出ても上手くいかないんじゃないかな』
『そんなのおかしいよ! 困ってる人を助けるのが警察官なんだもん! こーくんが辛い目にあってるのに、助けてあげられないなんて間違ってる!』
藍羽からしてみれば、俺は自身の正義漢を満たす都合のいい被害者だったのだと思う。いや藍羽はそんな風に考える人間じゃない。それでも思い返した時そう思ってしまうのは、俺が汚れてしまったから。
『待っててね……藍羽が警察官になったら、必ずこーくんを助けてあげるから!』
『その時は俺ももう大人だよ。それにほら、俺はあの両親の血を受け継いでるからさ。もしかしたらヤクザなんかになって、藍羽の敵になってるかも』
『えー! そんなのやだ! じゃあこーくんが道を間違えないように、おまじないをかけてあげる!』
もちろんこの時の俺は自分が本当にヤクザになるなんて思ってもみなかった。友だちへのただの軽口。深い意味なんて何もない。でも藍羽は違う。友だち同士だとしても、冗談なんか言わない。いつだって本心からの言葉だった。だからきっと、今もこの気持ちは変わっていないのだろう。
『こーくんがヤクザになったら、わたしが逮捕してあげる』
だから悪い大人になっちゃダメだよ。当時の意味はこれ以外になかった。でも今は違う。
『だったらヤクザになった俺は、藍羽から逃げ切らないとな』
『ふふっ。わたしから逃げられると、本気で思ってるの?』
……思っているさ。今の俺には、絶対に守り通さなきゃいけない人がいるから。
「5年前はお別れの挨拶もできなくてごめん。実はヤクザに売られちゃったんだ」
抱き着いてきた藍羽の肩を掴んで少し離し、彼女の目を見ながら語る。……やっぱり変わらない。この澄んだ宝石のような瞳に見つめられると。どんな嘘でも見破られているんじゃないかと錯覚してしまいそうになる。そういえば俺がつく嘘は全部見破られたっけ。
「やっぱり! わたしもそう思ってお父様に頼み込んだの! わたしの推理ではそのヤクザって鎧……」
「赤熱組。この辺で一番過激派なヤクザだよ」
だがそれは5年前の話。俺はこのハッタリだらけの話術でヤクザの世界を生き抜いてきたんだ。絶対にこの真実だけは隠し通してみせる。俺がヤクザの若頭だということ。そして結愛が組長の娘だということを。
「俺が赤熱組に人身売買されかけた時、親戚の人に助けてもらったんだ。それで北海道の方に引っ越したんだけど、高校進学を機にこの辺りに戻ってきたんだ」
もちろんこの設定は今この瞬間に作り出した嘘。嘘をつくのに慣れてない人間はごまかそうと無駄に多く語ってしまい、矛盾点を作ってしまう傾向がある。あまり知られたくない身の上話ならこの程度ざっくりしていた方が信憑性は高い。
「そっか……。でもよかった、こーくんが無事で」
納得したのか、したフリか。藍羽は笑顔を見せると歩き始めた。俺も結愛たち三人を先に学校に行かせて隣を着いて行く。
小学生時代の親友。もう二度と会えないだろうと諦めていた存在。そんな彼女と再会できたことはとにかくうれしい。それこそ涙が出そうなくらいに。だが素直に喜ぶわけにはいかない。なぜなら彼女の家が警察で、俺がヤクザだからだ。
警察はヤクザをいつでも逮捕できる。だがそれをしないのは、反社会的人間が解き放たれる可能性があるからだ。ヤクザは組長をトップとして組織としてまとまっている。子分が犯罪を起こせば、トップが指示したとされて逮捕される可能性がある。だからこそ大きな問題を起こさないよう上も下も気を張って生きている。
しかしだからといって犯罪を起こしていないというわけではない。法律を拡大解釈すればいつでも逮捕することはできるし、何なら俺と舞は今もジャケットの下に拳銃を隠し持っている。
大事なのは、警察をその気にさせないこと。ヤクザが高校にいるなんてことが知られたら、警察を動かすきっかけになってしまう。そうなれば結愛の望んだ学生生活は全てオジャンだ。それだけは避けなければならない。
「それにしても、藍羽も音旗高校なんだ。小学生の時は頭よかっただろ?」
「それを言うならこーくんこそ。わたしが2位で、こーくんが1位。いつもそうだったでしょ?」
「親戚に助けてもらってるのに進学校なんか通えないよ。それに中学時代はずっと親戚の家の畑を手伝ってたからさ。もう勉強なんかからっきしだよ。藍羽はそんなことないだろ? 警察官になるのが夢なんだし、キャリア組になるには勉強は必須だと思うんだけど」
「大学は良いところに入るつもりだよ。でも音旗高校って県内一の不良校でしょ? 将来警察官になろうって人が目の前の悪事を見逃すわけにはいかないよ」
それとなく情報を抜き出したいが、中々上手くいかない。小学生時代は腹芸なんかできるタイプじゃなかったが……この5年間で成長したか。あるいは素で話してくれているか……いやそれはない。なぜなら藍羽は既に一つ嘘をついている。
結愛たちに藍羽が警察関係者だと伝えるために口にした、父親が警視総監だという話。藍羽は即答で頷いたが、そんなことはありえないのだ。警視総監という役職は5年間もいられるポジションじゃない。今の警視総監は藍羽の叔父。ヤクザとして警察の動きは逐一チェックしているから間違いない。
なのに藍羽は嘘をついた……自分が警視総監の娘という立場だと俺に誤解させた方が都合がいいと判断したからだ。どこまで知られている……? 俺の設定は嘘だとバレているか……? 俺が普通の立場の人間ではないことくらいは確信しているはずだ。あるいは全て知った上で泳がせているだけ……!?
「あ、見て見て同じクラス! すごい偶然……ううん、奇跡だよ!」
そんな考えを巡らせていると、いつの間にか高校に着いてしまった。校舎の前の掲示板に貼られたクラス表を見て藍羽がうれしそうに飛び跳ねている。まさか俺を監視するために同じクラスにした……なんて考えすぎか……?
「……ふふ。やっぱりお互い変わらないね。嘘をつくのがすごい苦手」
悪寒。この5年間で幾度も感じた『何らかの危機』。それを感じた時にはもう遅かった。全てを見透かす藍羽の瞳が俺を見上げていた。
「嘘なんてついてないけど」
「ふぅん。じゃあまずわたしからネタ晴らし。わたしが音旗高校に入ったのは不良校を何とかしたかった、だけじゃない。ここに入るのが一番こーくんに会える可能性が高いと思ったからだよ」
落ち着け。顔に出すな。カマをかけている可能性がある。俺の動揺を引き出そうとしているだけかもしれない。大丈夫だ、こういう危機はいくらでも乗り越えてきた。だから……。
「……ほら。あれ見て?」
到底隠し通すことはできなかった。藍羽が指さす方向。崩した制服で歩く二人の男女の姿を見てしまっては、絶対に。
「兄さん……姉さん……」
俺の二つ上の兄と、一つ上の姉。5年前の面影を残す二人は俺の目の前に現れて。
そして何食わぬ顔で通り過ぎていった。
「……こんなことってあるかよ」
覚えていないってか。5年前に切り捨てた家族の顔なんて。自分たちの弟の顔も忘れて、俺たちの夢の生活を何の努力もせずに謳歌しているということか。
「……舐めやがって」
俺も買い戻すこともできる金を平然と動かせる両親。俺の顔を視界に収めながらも何の感情も動かさない兄と姉。
こんなことがあっていいのか。俺は親友と再会できても喜ぶことすらできないというのに。なんで、俺を捨てたこいつらは、のうのうと――。
「嘘をつくのは苦手だからはっきり言うね。君が5年前鎧波組に売られたことは知ってる。裏世界を生き抜いている子どもがいることも。本当に必死に、探してたから」
あぁ嫌だ。辛そうに、泣きそうになりながら諭すように語りかけてくる藍羽を見て、まだ若頭だということは知られていないと冷静に分析できている自分が。
「だから復讐とか考える悪い人になっちゃってたら、お兄さんとお姉さんがいる音旗高校に入学するだろうって思ってたの。……でも推理が外れちゃった。今の反応、たまたま知っちゃったんでしょ。だったらまだ間に合う。そんな悪いことを考えない、昔のままのこーくんだったらやり直せる」
残念ながら推理は的外れにも程がある。確かに兄さんたちが音旗高校に通っていることは今知った。でもあの姿を見て何もしないでいられるほど、俺は聖人ではない。
「わたしに守らせて。鎧波組に無理矢理働かされてるんでしょ? 大丈夫、わたしが必ず鎧波組を潰してみせるから。そうすればこーくんは普通の生活に戻れるよ」
確かにその通りだ。若頭とはいえ未成年。捕まっても刑務所に入ることはない。俺は普通の生活を送れるだろう。ヤクザになるしかなかった組員たちと、家族を失った結愛を見捨てれば。
「……そう。わかった。うん、顔を見ればすぐにわかるよ。こーくんの考えてることは全部。だったら昔の約束……守るしかないよね」
「あぁ……そうだな」
結愛の夢を守る。舞に普通の人生を送らせる。組員たちの生活を守る。それが俺の責務……若頭としての責任だ。そして俺は俺自身のために。俺を捨てた家族に復讐を果たす。やるべきことは決まった。
「……いいよ鎧波組とかそういうのはどうでも。組織を潰すのは大人の役目。わたしはわたしにできること……こーくんが悪いことをしようとした瞬間、止めてみせる」
これはヤクザと警察の争いではない。俺と藍羽の理想のぶつけ合い。
「こーくんはわたしが捕まえる。そして今まで辛い思いをした分、幸せにしてあげる」
「俺はまだ捕まるわけにも幸せになるわけにもいかない。まだ幸せにしたい人がたくさんいるんだ」




