第5章 第10話 餓鬼の葛城VS
四足獣のように身を屈め、四つの脚を地につき構える舞。しかし舞は獣ではなく人間だ。手と脚を使った高速の移動は不可能。つまりこれはより速く主の敵を討つための、クラウチングスタートであった。
「いくぞ――」
蜘蛛道の叫びが聞こえた、気がした。確信できなかったのは、その音よりも速く。光のような速度で舞の掌が蜘蛛道を弾き飛ばしたからだ。クラウチングスタートの体勢から駆け出し、その勢いのまま爪を立てて掌底を放つ舞の本気の一撃。
「雷獣射敵!」
俺の体感では、舞が技名を叫んだ時には全てが終わっていた。弾き飛ばされた蜘蛛道の身体が防火シャッターを突き破り、遥か遠くに沈んでいる。
「マ……マジで……?」
瞬殺と呼ぶことすら憚られるあっけなさに、あの薬ですらキャラも忘れて呆然としている。俺と結愛ですらここまでの蹂躙っぷりを見るのは初めてだ。脳のリミッターが外れている舞が、普段どれだけ力を抑えているか。どれだけ自分を抑え込んでいたか。その力を抑え込んでいた俺と結愛の関係という枷が外れた今、舞はどんな姿を見せるのか……正直少し、恐ろしい。
「若様っ。ご褒美っ、ご褒美くださいっ」
たった一撃で蜘蛛道を沈めた舞が、犬のように舌を出して俺に擦り寄ってくる。……結愛の前でやるのはなんだかこそばゆいが……。
「まだ……まだだ……!」
覚悟を決めて顔を舞に近づけると、壁の欠片をパラパラと落としながら遠くで蜘蛛道が立ち上がるのが見えた。
「……感触的に骨は砕いています。おそらく内臓も傷ついているはず。動かない方が身のためですよ」
瞬間すぐに臨戦態勢に移った舞。しかしそれすらも必要ないと言わんばかりに、俺の後ろに控えた。それもそのはず、血を吐きよろよろと揺れる蜘蛛道の姿は、どこからどう見ても瀕死の状態だった。しかしそれでも蜘蛛道は穴の開いた防火シャッターを潜り抜け、再び戦場に上がる。
「……どうしてこんな馬鹿な真似をした。お前なら……いつものお前ならこんな作戦は取らないだろ。俺が苦手な攻めの状況……普段のお前なら楽に俺を追い詰められたはずだ」
キャバクラ、誘拐、論馬組事務所……蜘蛛道は何度も俺の裏をかき、追い詰めてきた。だがこの最も大事な決戦の場において、蜘蛛道が取った作戦は薬に頼んでこの戦場を作ったことただ一つ。しかも敵うはずのない舞を相手にするという愚策に出た。喧嘩が目的だとしても、もっと上手く事を動かせたはずだ。
「……へへ。楽、か……確かにもっと楽に立ち回れただろうよぉ……。でもそれじゃあ……楽しくねぇんだ……」
蜘蛛道が強引に自身の上着を剥ぎ取っていく。
「駆け出しの頃……毎日毎日朝から晩まで働いて……それでも成果は極わずか……毎晩飲む一本の缶ビールだけが生き甲斐だった……。辛くて……しんどくて……でも確実に少しずつ前に進んでいて……それでよかったのに……。いつしか俺ぁ策を弄するようになった……」
曝け出されるのは、いつも胸元に覗かせている刺青と、青黒く変色した腹部。痛々しくて見ていられないほどだ。
「そしたらどうだ……あっという間に成果が出た……。自分で動かず他人を動かすのが性に合ってたんだ……まるで蜘蛛みてぇに。ただ糸を張ってりゃ勝手に獲物が巣にかかってきた……。楽だったぜぇ……今まで本当に。楽で楽で……本当に、楽しくなかったぁ……」
退屈そうに笑い、蜘蛛道が背中を向ける。その大きな背中に背負っていたのは、八本の蜘蛛の脚を持つ、鬼。ただしそこに彩はなく、褪せた線だけが残っている。きっと輪郭だけ彫る段階の筋彫りで刺青を入れるのをやめてしまったのだろう。
「なぁ葛城……こいつは何だと思う……?」
「蜘蛛の……鬼……」
「はは……不正解だぁ……。こいつぁ牛鬼……。どう見ても蜘蛛の鬼にしか見えねぇが……豪快な力強さを持つ牛の怪異だよ……。俺ぁこいつみたいになりたかったんだ……」
「…………」
「ガキの頃、名前のせいで蜘蛛だっつって馬鹿にされてた……小賢しく糸を張る貧弱な蜘蛛……。でも伝承に残るほどに活躍すれば、別の存在にすら成り上がることができる……。そういう人間になりたくて、ヤクザになった時に彫り始めたんだ……」
血か涙か……背中を見せているせいで判別はつかないが、水滴が零れる音がした。
「だがこの背中に命が吹きこまれることはなかった……。思っちまったんだ……背中なんざ見せずとも、見える部分さえ彫ってあればそれで充分脅しになる……わざわざ痛ぇ思いして長い時間をかけて墨を入れるより、そっちの方がよっぽど効率的だってなぁ……」
蜘蛛道が再び俺に顔を向け、構える。
「だが墨ってのは他人に見せるもんじゃねぇ……てめぇの生き様をてめぇの背中に背負うことだ……。そんなこともわからず俺ぁ今まで生きてきた……その結果俺に異名が付くことはなかった……。若頭まで上り詰めようと、所詮は蜘蛛のままだった……」
舞が俺の前に出る。死にかけの相手に対し、これ以上にないほどの警戒を見せた。
「なぁ葛城ぃ……『餓鬼の葛城』ぃ……! お前は何を背負うんだ……お前のその綺麗な背中に、何を背負って生きていくんだ……!」
確かに俺の身体に刺青はないし、これからも彫るつもりはない。いずれヤクザを辞め、カタギに戻るからだ。その覚悟は今の蜘蛛道にとって、ひどく軽く見えることだろう。
「……刺青ってのは一生消えないものだろ。そういうのは俺の性に合わないんだ。ついこの前も、一生守ると決めた一番大切な存在を消したばかり……ほしいものも大切なものも、何一つ定まっちゃいない。本物のヤクザとは程遠い半端者だ」
今、伝えよう。あの時俺が出せなかった答えを。俺が本当にほしいものを。
「俺は……俺も全部がほしい。目の前にある大切なもの全部。俺がこの背中に背負ってやる」
「……はっ。俺にはお前がそんな器には見えないぜ。背負いきれずに、仲間に助けてもらってるだろ」
「まだまだ成長期なもんで。これから大きくしていくさ」
「……確かにそれじゃあ墨は入れられねぇなぁ……。形が崩れちまう」
結愛と舞を後ろに下がらせ、俺も構える。本気の武器、卑雷針を。
「……はっ。やっぱりあいつら何もわかってねぇ。お前はそういう男だよなぁ……!」
「なんのことだよ」
「気にすんな。お前には関係ねぇ話だ」
俺が放つ電撃による強烈な光に目を眩ませながら、蜘蛛道が笑う。本当に、楽しそうに。
「さぁ始めようぜぇ……俺たちの最後の戦いだぁ! 餓鬼の葛城ぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
蜘蛛道が叫んだ時、もう決着はついていた。俺が卑雷針を、投げつけたことによって。
「が、ぁ……!?」
手のひらサイズとはいえバッテリーを装填した硬い物体。野球ボールと同等以上の重さがある。それを顔面に食らって、満身創痍の蜘蛛道が立っていられることはできなかった。
「逆光で動きが見えなかっただろ。それに得物がスタンガンなら誰だって近接戦を想定する。それで一度やられてるなら尚更だ。そこを突かせてもらった」
背中を上にしながら前のめりに倒れた蜘蛛道に伝える。
「お前は……本当に卑怯だな……」
「それが俺の生き様だ」
罵りながらも清々しく笑う蜘蛛道。もうしばらく動くことはできないだろう。
「最上階……椿の間……。そこにうちの組長がいる……。高城一郎に……お前の両親もだ。決着つけてこいやぁ……!」
「ああ」
長居している余裕はない。だから俺は、伝えたい言葉を一言に込めて、その場を去った。
「ありがとう。『牛鬼の蜘蛛道』」
俺が今まで見た中で……これまでの人生で一番の笑顔を浮かべた蜘蛛道にお礼を言い、俺たちは最後の戦いの場に進んだ。




