第2章 第6話 取引
「ごめんね、もう深夜なのに付き合わせて。あのままあそこで話してたら近所迷惑になっちゃうからね」
藍羽が部屋に来てから五分後。俺は黒いワンボックスタイプの車に乗っていた。ただし鎧波組が用意した車ではない。藍羽が……警察が用意した車だ。
「藍羽ちゃんあんまり刺激しちゃだめだよ!? 相手はヤクザ! 法も常識も通じない反社会的人間なんだからね!?」
運転するのは音手知由という藍羽の知り合いの新人女性刑事。肩を強張らせながらルームミラーでチラチラこちらの様子を窺っている。まぁ反応としては正しい。ヤクザは怖くて恐ろしい人間だ。存在していることすら罪と言える。
「そんな言い方しなくていいよ。もうこーくんは逃げられないんだから」
そして藍羽の発言もまた正しい。舞を使えばあの場から逃げ出すこと自体は簡単だったが、どうせ後で捕まるのがオチ。俺はおとなしく藍羽に捕まり、車に乗せられるしかなかった。
「そっちじゃないよ藍羽ちゃん……! 本当にやばいのは隣のメイド! 私だって一応刑事だからわかる……迂闊に触れちゃいけない、常人とは根本的に何かが異なってる人間じゃない人間! 藍羽ちゃんはわからないの!?」
「大丈夫だよ知由ちゃん。だからこそ人質に取ってるんだから」
舞はこの車に乗せたが、星閃たち三人は俺が用意した車に乗せてある。俺たちに何かがあれば、星閃たちを始末する。逆に一般人の星閃たちを始末すれば、俺たちが捕まる。お互いが人質を用意し、迂闊に手は出せない状況。俺にできたのはここまでだった。
「着いたよ、懐かしいでしょ」
そして車に乗せられること五分。車は俺が小学生時代何度も足を運んだ場所、藍羽の家に到着した。どこにでもある普通の一軒家。子どもの頃はせっかく金持ちなんだからもっといい家に住めばいいのにと思ったが、世の中はそんな単純ではない。どういうわけか、世間には正義の味方を無償で最善を尽くす超人だと思っている人間が一定数いる。贅沢をすることが悪、公僕は最低限度の暮らしをするべきだととち狂った正義感を持つ人間が。警察もヤクザも、元を正せばただの人間なのに。
「じゃあ舞、俺がスマホで合図を送ったら暴れていいから」
「かしこまりましたっ」
「知由ちゃん、わたしがスマホで合図を送ったらその子逮捕してね」
「は、早く送ってぇ……!」
これでさらに人質が強固になった。俺と舞は車を降り、家に入る。
「……ひさしぶりだね、光輝くん」
出迎えてくれたのは藍羽の両親。警察官である二人と顔を合わせる機会は少なかったが、よく覚えている。
「……娘から事情は聞いてる。何と言ったらいいか……すまない」
本当によく覚えているさ。警察のくせに、親に虐待を受けていた俺を助けてくれなかったんだから。なんて、今はそれほど思っていないが。
「俺がこうなったのは俺のせいです。社会のせいとか国のせいじゃない。俺がこの道を選んだんです。だから謝らないでください」
本心からの言葉だった。自分が不幸な人間だなんて同情を求めるつもりはない。ただもう半分、本心がある。
「あんたたち大人が助けてくれていたらヤクザになんかならずに済んだ。そしてヤクザにならなきゃ生きれなかった人間が俺を含めてうちの組には溢れてる。事実としてそれだけは覚えておいてください」
警察に、国に完璧を求めるつもりはない。ただそれでも言っておきたかった。俺たちヤクザは悪人だが、わずかでも何かが違えばそうはならずに済んでいたという事実を。同情ではなく、真実だけは伝えておきたかった。
「じゃあ行こっか、わたしの部屋に」
藍羽に促されて階段を上る。自分の部屋には懐かしいなんて思わなかったのに、やけにこの階段は懐かしさが溢れている。記憶より階段が短い気がするのは俺が大人になったからか、それとも少しだけ楽しみに思っているからか。
「言っとくけど、さっきのは正当防衛だからな。俺はただ自分の家にいただけ。舞にメイド服を着させて主従プレイを楽しんでいたところを帰ってきたあいつらが襲ってきた。拳銃も警棒も星閃が所持してたものを咄嗟に使ったんだよ。ほら、星閃にはヤクザとつながってる可能性があるんだろ? だから……」
「そういう話はしたくないから部屋に呼んだんだよ。ここならお互い、本音で語り合えるでしょ?」
藍羽が自室の扉を開き、電気を点ける。そこに広がっていたのは記憶の中にあるぬいぐるみに囲まれた女の子らしい部屋……ではなかった。壁一面に資料が貼られ、点けっぱなしだったパソコンには鎧波組の情報が書かれた掲示板が表示されている。聞くまでもないし、聞くのも恥ずかしい。全て俺を探し出すためだけに、自分殺して作られた部屋だ。
「……同情でも引く気か? これで俺がヤクザを辞めるとでも?」
「まさか。こーくんはこんなもんじゃ止まらないよ。でも確実に、心が痛むでしょ?」
言い返せなかった。正確には言い返すだけ無駄と言う方が正しい。俺の考えは全て藍羽に見抜かれてしまう。
「もっと心が痛むこと言ってあげようか。あのメイドさん、朝こーくんと一緒にいた子だよね? だとしたら残りの二人もヤクザなのかな」
「舞は部屋住み……つまり準構成員だ。どちらかというと半グレに性質は近い。それに結愛と龍華はただヤクザの娘ってだけで本人たちは何も関係ない。どっぷり浸かってるには俺だけだよ。鎧波組若頭の俺だけ」
「若頭……か。思ってたより意外性はないな、こーくんならそれくらいになっててもおかしくないと思ってたし」
藍羽は机の上の間接照明を点け、部屋の照明を消す。ほんのわずかに照らされた藍羽の顔は、5年前とは違う。ただ潔白なだけの子どもじゃない。目的のためなら手段は選ばないという、大人の妖しさを秘めている。
「……俺だってお前の考えてることくらいわかってる。家に呼んだのは取引をするためだろ」
だから決定的な証拠が出てくるまで俺を見張ってた。捕まえると宣言したことで、逆に俺が隠れて裏工作をすると読んでいたのだろう。でなければあのタイミングでの登場はありえない。
「俺もいつまでもビクビクするのは嫌だからな。そっちの方が都合がいい」
言葉を行使する裏取引は俺の得意分野だ。相手にとって都合のいい条件を提示し、それ以上のメリットを享受する。これができるから俺は今の立場にいる。さっき自分が若頭だと明かしたのはここからは隠し事はなしだと誤認させるための撒き餌。上手く丸め込んでやる。
「まずお互いの最優先事項を確認しようか。俺は俺を捨てた家族に復讐したい。お前は半グレたちが跋扈する学校を救いたい。お互いの目的は一致してるな。俺は夜煌を潰す。ついでに他の半グレ集団も。その代わり俺たちのことは学校には内緒にしてほしい。色々面倒なんだよ、ヤクザが学校にいるなんて校長とかにバレると」
言うまでもなく俺の一番の目的は結愛たちに普通の高校生活を送らせることだ。だからそれを人質に取られることだけは避けたい。なので俺の目的をカモフラージュ、さらにバレたくない対象を生徒ではなく教師に絞らせる。実際には校長には明かしているからチクられたところで何の問題もない。しかしこう言えば、俺が一番恐れているのは教師バレだと誤認させることができるだろう。さらに言えば夜煌も半グレ集団も元々潰すつもりだった。だからこれは俺に何のデメリットもない、一方的に藍羽を縛り付ける契約。乗ってくれなかったとしてもここをベースに話を展開できれば……。
「どう? 藍羽にとっても悪い条件じゃな……!?」
だが俺の得意の言葉はこれ以上続けられなかった。俺の口を、藍羽の口が塞いだから。
「な……なぁ……!?」
「何か勘違いしてるよね、こーくん。深夜に異性を家に呼び出すなんて、目的は一つしかないでしょ?」
驚きに言葉も発せられなくなった俺の身体は、いともたやすく藍羽に押し倒される。ベッドと藍羽、柔らかな感触に挟まれ、まともな思考力は失われる。
「わたしたちの関係、忘れたとは言わせないよ? 成績はいつもこーくんの方がいいけど、なんだかんだでわたしがおいしいところをもらっていく。うん、わたしの負けでいいよ。正直な話、こーくんがいくら悪いことをしたところでわたしが捕まえられるとは思ってないんだよね。ほら、恋は盲目って言うじゃん? 好きな人の人生なんて奪えないもん」
恋……!? 好きな人……!? 駄目だ、藍羽の発言全てに思考が乱される。もしかしてこれも作戦の内……!? いやでもそんな……あの藍羽がそんなハニートラップみたいなことするわけが……!
「じゃーんっ。これ見て、婚姻届! ちゃんとこーくんの分も記入済みだよ?」
「それ公文書偽装……! おもくそ犯罪……!」
「あれ、ヤクザがそんなこと言っちゃうんだ。だからわたし言ったよね。悪いことをすることが特別だと勘違いした子どもこそ、本当に悪い大人の格好の餌食だからねって。法律を守らない人が法律に守られるとでも思ってる? 暴力だけが犯罪じゃない。こういう目に遭っても助けを求められないから悪いことはしちゃいけないんだよ。まぁもちろんまだ結婚できる年齢じゃないから提出するのは18歳になった後だけど」
……俺は勘違いをしていた。藍羽を、子どもの頃のままだと。だが違う。俺と同じで、あれから5年も経っているんだ。その事実を俺の身体の上の感触と、僅かに見える表情が確かに認識させる。もう彼女は、とっくに大人だった。
「……どこまで本気かわからないけど。ヤクザと結婚するってことは……警察にはなれないってことだぞ。警察どころか普通の人生も歩めない……」
「わかってる。わかってるから、こうしてるの。一番大切な人を……一番好きな人を見捨てて。警察官になんかなれるわけない。あの時助けられなかった子どもを救えなくて、この先の未来なんていらない」
ポツリと。雫が俺の顔に垂れてくる。言葉にならなかった想いが、形になって溢れてくる。
「そう、これは取引だよ。こーくん。受け取ってくれる? わたしの気持ちを」
その言葉に、俺は――。




