54.終わらない今④
視界の端にはずっと、不完全に変色した石板が見えている。
また触れてしまったら、この時間もなくなってしまうのだろう。私は覚えていても、二人の記憶からはなかったことになる。
ディルは一日待てば思い出すけど、ユークリスは完全に忘れてしまう。私はそれでもいい。ただ、二人が交わした時間を奪ってしまうのは申し訳ないと思う。
私は一人で歩き出す。
「セレネ?」
「私は先に屋敷へ戻っているわ。二人はもう少しここで話していていいわよ」
「え、それならセレネも一緒に」
「馬鹿ね。せっかく兄弟らしく話せる場所よ? ここは部外者が立ち入れないんだから」
この部屋から出てしまえば、二人はまた無関係な他人として振舞わなければならない。せっかくゆっくり話せる場所であり、時間なんだ。
そんな時間を邪魔するほど、私は無神経じゃないわよ。
ディルの足なら誰にも見つからず、監視の目を盗んで抜け出すくらいできるでしょう。そこは上手く弟と協力してもらえばいいわ。
「じゃあ、また後でね?」
「……ああ、ありがとな、セレネ」
「ありがとうございます」
「お礼なんていらないわ」
そう言い残し、私は一足早く影に潜った。
真っ暗な世界を通り、屋敷の近くまで移動する。私たちの目的が達成されれば、この便利な力もなくなってしまう。
慣れない程度に、せいぜい快適な生活を楽しませてもらいましょう。
異能なんて本来、人間が持つべき力じゃない。普通の家庭に生まれ、普通の貴族として育っていれば、縁もゆかりもなかったはずだ。
改めて思う。
運命とは、つくづく皮肉なものだと。
多くの人が憧れる力を持っているのに……そういう人間こそが、普通の生活にあこがれている。力なんていらないと、心底思ってしまっている。
ならば結局、この力は何のためにあるのだろうか?
誰が望んだ力なのだろう。
疑問を胸に抱きながら、私は屋敷の入口へと足を運んだ。
「――やっと見つけたわ。セレネ」
玄関を開けて中に入ると、一人の女性が立っていた。
彼女を一目見た瞬間、私の脳内に一言が浮かぶ。
――台無しだ。
ディルとユークリス、彼らとの時間は穏やかで、考えることは多いけど、一緒にいて落ち着ける場所だった。
二人の兄妹らしいやり取りが見られて、案外悪くない気分だったのに……。
彼女の作り笑いを見たせいで、すべてが吹き飛んでしまった。
「どこかへ出かけていたの? お付きの人もつけずになんて不用心よ」
「……」
彼女は気さくに話しかけてくる。ヴィクセント家の当主である私に対して、まるで仲がいい姉妹のように……いいえ、母親みたいに心配して。
私は小さくため息をこぼし、彼女に問いかける。
「……どうして、貴女がここにいるのですか? お母様」
「あら? おかしいかしら? 私の屋敷に帰ってきただけよ?」
「……」
シオリア・ヴィクセント。前当主である父の妻であり、ソレイユの実母。私にとっては……赤の他人だけど、一応義母ではある。
できれば会いたくなかった人物だ。おそらく、お互いに会いたくはなかっただろう。
だから彼女はずっと、本宅ではなく別荘で生活していた。私が愛人の娘であると露見した日から……今日まで。
私は彼女をじっと見つめる。
「その顔……私のことは嫌いかしら?」
「ええ、好きではないわ」
「あらあら、ハッキリと言ってしまうのね?」
「あの頃とは立場が違うわ」
今の私はヴィクセント家の当主だ。前当主の妻であっても、私のほうがこの家での権威は大きい。
むしろ、彼女のほうこそ態度を改めるべきだろう。
いや、立場の有無は無視にしても、私は彼女のことが好きじゃない。理由は明白だ。彼女が……私のことを嫌っているから。
ただ、始めから嫌っていたわけじゃない。
私とシオリアはただの他人だ。愛人の娘だった私は、その事実を隠すためにヴィクセント家に迎え入れられた。
当然、シオリアはその事実を知っている。自分がお腹を痛めたわけじゃないのに、勝手に子供が増えるなんてありえない。
つまり、彼女は理解した上で私に接していた。どういうわけか、初めて会ったころの彼女は、私にも優しかった。
父が私に優しくしていた理由はわかる。屋敷の人間や外から見られた時に、私が妾の子供だと気付かれないようにするためだろう。
ただ彼女は……本来もっと怒るべき立場だった。
それなのに、彼女は私のことを本当の娘のように可愛がってくれた。でも、ソレイユが生まれたことで彼女の態度は豹変した。
私に、害虫を見るような目を向ける。視界に入らないでほしいと暴言を吐かれたり、話しかけても一切答えてくれなかったり。
優しかったはずの人が突然変わってしまって、私は悲しい以上に動揺した。そうした時間が流れるうちに、私はいつしか……この人のことが嫌いになっていた。
今だからわかる。きっとあの頃の私は……裏切られた気持ちでいっぱいだったんだと。
「ひどい子ね。傷ついちゃうわ」
「下手な演技はやめてもらえるかしら? 傷つくわけがないでしょう? だって、お母様も私のことは嫌いでしょ?」
「……ふふっ、私は一度も、嫌いなんて言ったことはないわよ?」
ならばどうして、態度を急変させたの?
逃げる様に本宅からいなくなって、別荘で暮らし始めたのはなぜ?
と、問いただそうと口が動き、私は咄嗟に口を塞いだ。言及したところで無意味だと理解しているから。
高ぶる気持ちを抑え込むように、私は大きく長く呼吸を一回する。
そうして、改めて彼女と向き合う。入り口をふさぐように立っている彼女に言う。
「そこを退いて」
「せっかく久しぶりに会えたのよ? もっとお話をしましょう」
「お母様と話すことなんて何もないわ。それに……ここは玄関よ?」
「そうだったわね。なら、奥の部屋でゆっくりお話でもするかしら?」
彼女はニコッと笑みを浮かべて尋ねてきた。
白々しい質問だ。そんなこと、私が望むはずないと理解しているくせに。
「言ったはずよ。貴女と話すことなんて一つもないわ。いいからそこを退きなさい」
「つれないわね。いいわ、私も雑談をするために、ここで貴女を待っていたわけじゃないないのよ」
「……どういう意味かしら?」
質問する私に対して、彼女は不敵な笑みを浮かべる。
初めて見るような不気味な笑顔に、思わず背筋がぞくっとする。こんな感覚は初めて……いいや、魔物と対峙している時に似ている。
もちろん相手はただの人間だから、魔物のような威圧感も不気味さもない。それなのに、どうして頭の中で、魔物を連想したのだろう。
「話なら手短に済ませてもらえる? 私はこれでも忙しいのよ」
「それは当主だから?」
「ええ、もちろんよ」
「ふふっ、ならその必要は……もうなくなるわね」
彼女は不敵な笑みを浮かべたまま、私のことをあざ笑うように見つめる。その表情が気に入らなくて、私は彼女を睨む。
「何を言っているの?」
「セレネ、貴女はもう当主である必要がないわ。だって、新しい当主がいるのだから」
「何をふざけたことを言っているのかしら? お父様は当主じゃないわ。当主であるための条件を満たしていない。異能は失われたのよ」
「知っているわ。だから、あの人じゃないわよ」
コトン、コトン――
足音が聞こえた。彼女の背後から、誰かが近づいてくる音だ。
私は予感する。直前にディルたちと、あんな会話をした後だからだろう。
シオリアが言う新しい当主……その人物として思い浮かぶのは、お父様以外では一人しかいない。
「――新しい当主はこの子よ」
「……ソレイユ」
予想した通り、シオリアの後ろから現れたのはソレイユだった。見た目に大きな変化はない。ただ少し……表情が暗い。
私のことを見ながら、何かと葛藤するように眉をひそめている。
大方、シオリアに無理やり連れてこられたのでしょう。お父様は知っているのかしら?
どちらにしても、私はシオリアの言葉を否定する。
「何を言っているの? ソレイユには無理よ。さっきも言ったはずよ」
ヴィクセント家を含む守護者の家系では、異能を宿していることこそが当主になる絶対条件であり、それさえ満たしていれば当主となれる。
だから私も、お父様から当主の座を奪うことができた。
逆に言えば、異能を持っていなければ、たとえ正当な血筋であろうとも、当主にはなれない。正妻の娘であるソレイユには、当主になる資格がない。
「異能ならあるわ」
「――!」
ただ、もしも……。
「見せてあげなさい。ソレイユ」
「まさか……」
異能を宿す人間が、同じ家に二人も生まれてしまったら?
「……ごめんなさい、お姉様」
小さな一言で、ソレイユから謝罪の言葉が聞こえた。
直後、彼女を中心にしてまばゆい光が放たれる。温かくも力強い、太陽のごとき輝きが。
「これは……太陽の異能?」
「その通りよ、セレネ! ソレイユは覚醒したの! 太陽の守護者として!」
歓喜に満ちた表情で声をあげるシオリア。
私は一人、目を疑う。予想はしていたけど、実際に目の当たりにすると驚きを隠せない。
それと同時に、私の心は震える。もちろん、喜びで。
これでちゃんと……太陽の異能を奪うことができる。
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