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あの日見た空の色も青かった  作者: 木立 花音
第一章:出会いの日、8月1日
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初恋の亡霊

「これ、親からもらったカメラなの」

 とその日美奈子は言った。彼女にしては珍しく、弾んだ笑顔を見せて。麗らかな日差しが降り注ぐ、中一の春の部室でのことだった。

 逢坂部の初恋の相手、高崎美奈子。

 高価な一眼レフカメラを常時持ち歩き、撮影の仕方に独特の癖、というか、感性のある少女だった。被写体を、じっくり観察していたかと思えば、何の脈絡もなく、突然シャッターを切ったりもした。

 突飛すぎる撮影法に驚いた逢坂部が、「どうして今、写真を撮ったの?」と訊ねても、曖昧に笑うのみで殆ど答えてくれなかった。

 彼女は、時々逢坂部を被写体にして写真を撮った。「こんな冴えない男を撮ってもつまらないだろう?」と、自嘲気味に彼が訊ねると、「そうね、つまらない」と彼女は即答した。イタズラに笑んで、「色彩の薄い被写体を、どれだけ輝かせることができるかに、私は挑戦しているの」と悪びれもせず言った。

「褒めてはいないよね?」と一応確認をすると、「そうね、褒めてはいないわ」と、忖度なしの返答がきた。

 放課後になると、カメラを片手に二人であちこち彷徨った。誰もいない校舎の裏手。壁が苔むしている、廃業した店舗。一日に数本しか電車が出ない無人駅。野良猫以外、誰も通らない薄暗い路地裏。どう見ても、人が寄り付かない物悲しい景観ばかりを選び、何枚もファインダーに納めた。華のない景観に色を与え、芸術として昇華させることで、同じように華のない自分達を正当化しようと考えたのかもしれない。なる程。俺は被写体として最適だ、と彼は妙なことで納得した。

 一時の気の迷いか、一度だけ市のコンクールに二人で写真を応募した。結果は二人揃って落選だった。構図が悪いんだよ、とか、被写体に華がないんだよ、とか、今さらのように被写体のせいにした。

 そうして、なんとなく時間は過ぎた。

 ただ、惰性のように。

 二人の間にさして会話はなかったが、息苦しさは不思議となかった。確かに自分は彼女に惹かれ、彼女もまた、自分に寄り添っている。そんな感覚を逢坂部は覚えた。

 それでも、二人の関係は希薄なものであり続けた。肌を重ね合うどころか、キスを交わすことも手を繋ぐこともなかった。もちろん、好きだと伝えることなど、あるはずもなかった。

 近くもなければ遠くもない。文字通りに曖昧な関係。クラスで常に浮いていた二人にしてみれば、それはむしろ相応な距離感だったのかもしれない。

 逢坂部が美奈子に対して気持ちを伝えようとしなかったのは、喪失の予感があったから、なのだろうか。恋と呼んで差し支えない感情を抱きつつも、何度か転校を繰り返していた経験上、いつかは別れの時がくる――とそんな懸念があったのかもしれない。

 それでも彼は、いや、おそらくは彼女も、関係を進展させなかったことにきっと未練を残していた。だからこそ、彼の転校が決まったその日、美奈子が「文通をしよう」と申し出てきたのも必然だった。「手紙、書くからね。必ず返事ちょうだいね」と言い俯いた彼女の顔は、どこか上気して逢坂部には見えていた。

 今でこそ、手紙によるやり取りなんて時代遅れの発想だが、当時は携帯電話がようやく普及し始めた頃。文通なんてある意味美奈子らしいな、と笑いながら、彼女の申し出を彼は快諾した。


 盛岡から埼玉に移り住んで数日が過ぎた時、美奈子から最初の手紙が届く。手紙の文面は、『お元気ですか。あなたがいなくなってから、少しだけ寂しくなりました』こんな感じで始まった。

 手紙は半月に一通程度のサイクルで交わされ、探り探りで始まった手紙の内容は、次第に踏み入ったものになっていく。

 中学時代の思い出。進学した高校の話。新しい教室で、なかなか友人ができないこと。

 クラスメイト。担任教師。彼らに対する愚痴。高校でも、お互いに写真部に所属したこと――。

 逢坂部は、埼玉の高校にうまく馴染めていなかった。教室に友達なんて一人もいないし、写真部に所属こそしていたが、仲のよい部員もおらずすぐ幽霊部員になった。身の上話や悩み事を打ち明ける相手なんてどこにもいないし、もちろん打ち明けてくれる相手もいない。中学時代のほうがまだマシだったな、と考えては無駄に憂鬱になった。それまでも似たようなものだったが、『美奈子』の存在を失ったことで、喪失感という不安定要素が付加されていた。

 せめてもの救いは、彼女が置かれている境遇も、自分と良く似ていたことだろうか。友人の少ない教室。文面から伝わってくる退屈な家庭環境。無味乾燥に繰り返されていく日々。だが反面、彼女にはカメラという趣味があり、写真部での活動も充実していたようで、幾分か自分よりはマシに思えた。その事実が、より一層心に影を落とし込んでいく。

 どうしようもない自分の姿を、美奈子に知られるのが怖いと唐突に思った。この頃には、彼女に対する好意をはっきり自覚していたから余計に。そこで手紙の中に、少しずつ、本当にちょっとずつ嘘や脚色を散りばめていく。架空の友人。架空の想い人。ちょっとだけ成功している自分の姿……

 それでも、恋人の存在を仄めかすことだけは決してなかった。いかに彼が、美奈子への恋心を自覚し、未練を残していたかがうかがえる。

 文通が進むにつれて、文面は更にお互いの内面に踏み込んだものに変化していく。家族の話。将来の夢。そして、恋愛の話――


『私は今、気になっている人がいるのですが、これは恋愛感情なのかなと、時々悩んでしまうのです。賢梧君は愛についてどう考えますか?』

『俺に、愛について語る資格はあるのかな? ただ、一口に愛といっても色んな形があるのだと思う。物を大事にすることも愛だと思うし、道端で死んでいた猫を見て涙を流すのも愛だと思うし、家族のことを心配することも愛なのだと思う。それら、すべてが』

『ふふふ、何やら哲学的な話をするのですね。あれからわかったことが一つあるのですが、私のように暗い人間には、愛なんて似合わないのだと思います。自分の中にある感情を持て余してしまって、いつも思い悩んでしまいます』

『自分に正直に生きれば良いと思う。俺は高校に入ってから、あまり良い出来事がありません。日々、先の見えない毎日です。そんななか、こうして美奈子に手紙を書いている時、君のことを考えている時、心が満たされていく気がするのです。ならばきっと、これも一つの愛のかたちなんじゃないかと』

『手紙だからでしょうか? 随分と恥ずかしいことを言ってくれるのですね。今、とても嬉しく感じています。前にも言った通り私は、高校に進学してから、友人関係があまり上手くいってません。毎日のように中学校時代の写真部のことを思い出しては、感傷に浸っています。だから、ようやく気がつきました。私は――賢梧君のことが好きでした。これは紛れもなく愛です。叶うことならば、今すぐにでもあなたの顔を見たい。そんな感情すら湧いてきます。今更こんなことを告げられても、あなたは困惑する事でしょうが』


 この手紙が届いた直後、逢坂部の心が激しく揺れた。自分の中でも、高崎美奈子への恋心が芽生えていたのは確実だったし、この瞬間おそらく二人は、両想いになった。だがそれで浮かれてしまう程、話は単純明快ではなかった。

 第一に、彼は変わり過ぎていた。高校進学後、前述した通り交友関係の構築をミスしていたことで、著しくつまらない人間に変貌していた。そして手紙の中では、そんなつまらない自分の姿を偽り続けていた。加えられる脚色はより強く、より大きなものへと変化していた。

 第二にそれゆえ、美奈子から向けられる真っ直ぐな好意を受け止めるだけの自信がなかった。いまさら本当の自分を曝け出して、失望されるのが怖かった。だから彼女が、「逢いたい」という気持ちを遠まわしにでも仄めかしてくる可能性を大いに恐れた。

 とてもではないが、会うことなんてできない。それから、様々な理由をこじつけては、逃げる為の口実を探し始める。受験勉強が忙しくなるから。俺は美奈子に相応しい人間ではないから。手紙の中の自分と俺は違うから。等々……

 決定的な理由となったのは、二人の距離だ。盛岡から埼玉まで530キロだ。高速道路を車で飛ばしても七時間だ。高校生だった彼には、埋めようのない大きな溝だ。

 今更二人の関係を構築したところで、何かが変わるとも思えないし、そんな努力などするだけ無駄だ。そこに思い至った瞬間、実にアッサリと手紙の返信を止める。鬱々と心の中に降り積もる負の感情は、美奈子のことを忘れようとすることで、懸命に脳裏から追い出した。

 それから約一ヵ月後。急に手紙が途切れたことを心配したのだろう。再び美奈子から手紙が届く。しかしこの手紙は開封されることなく、いや、正しくいえば、開封する勇気が彼にはなく、そのまま引き出しの奥に仕舞われる。こうして二人の関係は――ついに途絶えた。


◇◇◇


 ぼんやりと、自分が視界に何を入れているのか、夢現(ゆめうつつ)の中理解し始める。

 木目の天井が見える。そうだ、ここは自分の部屋ではないんだと認識が思考に追いつき、彼は目覚めた。

 途端に胸の辺りが苦しくなって、激しく咳き込む。しばらく肩で大きく息をして、落ち着いてくると徐々に口を小さくしながら呼吸の量を少なくしていく。完全に落ち着いたところで胸に手を当てながら最後に一度だけ大きく息を吐いた。

 痺れるような頭痛と回らない思考。ぐっしょりと寝汗をかいている背中。周囲に視線を巡らして状況を確認をする。……ここは宮古の民宿だ、と認識し、嫌な夢を見ていたことに遅れて気がつく。

 逢坂部は布団から跳ね起きると旅行鞄を開け、古びた茶封筒を取り出した。裏面には盛岡市の住所と、差出人『高崎美奈子』の名前が記載されていた。

 高校三年生の春。彼女から最後に届いた、未開封のままの手紙だった。

 過去に未練はない。そう思っていたはずなのに、未だに捨てられない自分の弱さの象徴。先ほどまで見ていた夢を思い出して、心底嫌な気分になった。


「なんなんだ……くそっ」


 呪詛の言葉が思わず漏れる。

 勢いで封を開けようとするものの、やはり怯えた感情が顔を出して手が止まる。

 今はまだ、この手紙を開ける時ではない。そんな言い訳めいた台詞ばかりが、脳裏を駆け巡っていた。

 結局……封を切ることの出来ない自分の弱さを罵りながら、再びバッグの中に仕舞いこむ。だが同時に彼の胸の内では、ひとつの決心が固まりつつあった。


 窓の外に目を移した。今日の天気も雲ひとつない快晴だ。耳障りな程に合唱を続ける蝉の鳴き声が、暑さを一層引き立てる。よくこんな環境下で眠ってられたもんだなと、他人事(ひとごと)のように感心した。

 時計を見やると、短針は既に昼近い時刻を指し示していた。こんな時間まで目が覚めないなんて、思いの外昨晩は疲れていたのだろうか。小さく一つ溜め息を漏らしたあと、ようやく彼は着替えを始めた。


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