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あの日見た空の色も青かった  作者: 木立 花音
第三章:彼女の真実に触れる十数日間
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610号室②

 次の目的地は、流石にスクーターバイクで辿り着けるような距離ではない。盛岡駅から新幹線に乗り換えた逢坂部は、約半月振りに、埼玉県さいたま市を目指していた。

 向かっているのは、引越しに備え荷物を纏め、がらんどうとなっている自宅アパート。なんとしても今、確認しておかなければならぬ物が、その場所にあった。


 新幹線の心地よい振動に身を委ね、飛ぶように流れてゆく車窓の景色に視線を向けながら、バス事故があった日の記憶に思いを馳せる。

 欠落していた記憶は、観光バスのハンドルを握って埼玉を出発し、長野を目指している途中でトイレ休憩のため立ち寄った、高速道路のサービスエリアでの出来事だった。


◇◇◇

 

 あの日俺は、サービスエリアでバスを停めると、一旦車外へと出た。緊張ですっかり凝ってしまった肩を揉み解しつつ、懐から煙草を取り出して火を点ける。

 思うに俺は、緊張を紛らわす時だけ煙草を吸う習慣があるらしい。

 何時の間にか、雪が舞い始めていた。吐く息が白くなっているのに気が付いて視線を巡らせていくと、辺りは薄っすらと雪化粧を始めている。


「綺麗だ」呟きをひとつ落とすと、肺に溜め込んだ紫煙を吐き出した。

 その時の事だった。幾分か気後れするような女性の声が、背後から聞こえて来たのは。


「……すいません」


 振り返って声の主を確認すると、其処には白木沢帆夏が佇んでいた。彼女は視線を左右に彷徨わせながら、首に巻かれたマフラーを、落ち着きなく弄っている。やがて友人に背中を押されると、「……もう」なのか、「……ちょっと」なのか不平の言葉を漏らしながらも、俺の前まで進み出てくる。

 一度俺の目を見た後、頬を染めながら俯くと、今度は視線を地面に縫いとめたまま動かなくなった。そのまま暫く、無言の時間が続く。彼女の方から声を掛けてくれた事に高鳴る胸を宥めつつも、大丈夫かな? と心配になり始めた頃合いに、ようやく彼女は口を開いた。


「あの……」それは、酷く掠れた声だった。

「なんだい?」

「こえ、じゃなくてこれ、後で読んでくだない……じゃなくてくださいっ」


 何度か台詞を噛みつつも、青い封筒をおずおずと両手で差し出してくる。幾ら女性の扱いに不慣れな俺であっても、彼女の反応と仕草から、その封筒に入っている手紙がどんな趣旨の物なのかは、漠然とだが理解出来た。


「あ、ありがとう」


 何が『ありがとう』なのか分からないな、と内心自嘲しながらも、恐る恐る封筒を受け取った。


「お邪魔して、すいませんでいた。じゃなくて、でした」


 彼女は元気良くそう告げると、深々と頭を下げる。上目遣いで一度俺の顔色を窺った後、ぱっと背を向けて走り去って行った。その瞬間垣間見えた彼女の顔は、ぼんのりと上気しているように思えた。

 俺はそんな彼女の反応に、しっかり心が癒されるのを感じながら、封筒を懐に仕舞いこんだ。


◇◇◇


 ……そして、この封筒の存在を、今日まで完全に失念していた。

 何故なんだ、と逢坂部は自問する。こんなに大事な記憶でさえ忘れていた自分が情けなくなる。


 封筒は結局、あの後開封していないし、数時間後にはバス事故で数日生死の境を彷徨ったのだから、当然今でもスーツの内ポケットの中に入ったまま……のはずだ。

 だが、それは建前であり実際のところはわからない。本当にスーツの中に封筒が入ったままなのか。それとも、誰かに処分されてしまったのか。忘れていたくらいなのだから、当然。

 もし後者であったならば、それはとんでも無いことだ。

 だからこそ今、絶対に確認しておかなければダメなんだ。背中を嫌な汗が伝うのを感じつつ、彼は新幹線に揺られ続けていた。


 大宮駅で新幹線を降りると、足早に改札口を潜り抜ける。普段の彼であれば、少しでも出費を抑えるため路線バスを利用するところだったが、この時ばかりは駅前でタクシーを捕まえる。悠長にしている精神的余裕などなかった。

 退職金の残りと、この先に掛かるであろう費用を天秤に掛ける作業も、完全に放棄していた。お金なんて、取り敢えず足りているうちはなんとかなるだろう。

 今やるべき最優先事項は、白木沢帆夏の手を握り、彼女が『生きている』ことを確認することなんだ。

 それ以外の事柄は、全て二番目以降にやること。


 アパートの前にタクシーが止まる。法外な運賃を請求される羽目に陥るが、特に気にも留めずに支払い車を降りた。

 錆の浮いた手すりに触れながら階段を登り、二階の一番手前にある部屋の鍵を開ける。落としていたブレーカースイッチをオンにして電気を灯すと、複数のダンボール箱が並び、ベッドとテレビしか置かれていない無機質な部屋の姿が見えた。


 さて、どこから探そうか……。

 積み上げられたダンボール箱の中から、衣類を詰め込んでいた物を探し当て、カッターナイフで慎重に開梱していく。

 当時の記憶を頼りに、着ていたであろうスーツの内ポケットを順番に探していく。封筒が見つからないことに愕然としながらも、他のポケットも弄っていった。

 結局。手持ちのスーツを全部フローリングの床の上に広げた状態で、逢坂部は膝を抱えうずくまった。


「見つからない?」


 どうしてだ? と思わず呪詛の言葉がもれでる。

 当時の記憶をもう一度引っ張りだして再生していく。間違いなく、俺は当日スーツを着ていた。封筒にしろ、胸の内ポケットに入れた記憶が残っている。

 涙が溢れそうになっている自分を狼藉しながら、再度熟考を繰り返す。


「あ、もしかして……?」


 記憶の糸を必死に手繰り、別のダンボール箱を開梱すると、その中から出てきたのは、大きめなジップロックの袋に入った血痕の付いたワイシャツと下着類。

 事故当日の自分の持ち物と、洗っても落ちない血が付着した衣類を纏めて詰め込んでいた袋だった。辛い記憶を遠く目につかない場所に追いやるため、意図的に隔離していた荷物のひとつ。

 震える手で袋を開くと、その中から赤黒い沁みで所々が汚れた青い封筒が見つかった。


「あった……」


 感極まって封筒を両手で抱いたのち、ハサミで丁寧に封を切った。


 ここから先の記憶は、途端に断片的なものになる。如何に逢坂部の気が動転し、辺りが見えなくなっていたかが窺える。

 掻い摘んで説明を加えていくとしたら、まずは帆夏から送られた手紙に一通り目を通して涙を流した。そこに綴られていたのは、やはり眩しいばかりの愛の言葉だった。言うならば、浄土ヶ浜の海での告白は、彼女にとっては二度目の告白だったのだ。二度目にしてようやく彼は振り向いた、と言っても過言ではない。同時に、彼女と過ごした幻のような日々の記憶が鮮明に蘇ると、胸が締め付けられるように苦しくなった。

 手紙の入った封筒だけを荷物に加えると、アパートを飛び出して直ぐに大宮駅を目指した。復路は急行電車に飛びのり盛岡駅に着いたころには、すっかりと夜の帳が降りた時間帯だった。

 駅前のビジネスホテルにチェックインして布団の中に潜り込むと、あっと言う間に睡魔が襲ってくる。ちなみにこの間、何時どこで何の食事を摂ったのか、記憶が定かでない。

 彼女の安否だけが気懸りで、自分の事などどうでも良くなっていた証左だろう。

 

 翌朝、急いでホテルをチェックアウトした逢坂部は、スクーターバイクを走らせ盛岡医科大学病院を目指した。

 病院のロビーを駆け抜けてエレベーターに乗り、帆夏の入院している610号室前の廊下にたどり着くと、其処には双子の妹──真冬が居た。


「また来たの? あんたも案外と、懲りない奴なのね」


 真冬は腰に手を当て訝しむような眼差しを向けつつも、口元には薄く笑みを湛えていた。彼女の表情は、以前より刺々しさが消えたように見える。

 彼女の警戒心が薄れていると見て取ると、逢坂部は真っ先に切り札のカードを切った。


「真冬ちゃん、不躾(ぶしつけ)で悪いんだけど、取り敢えず、この手紙を読んでもらえないだろうか?」


 不思議そうな顔をしている真冬に、帆夏から渡された青い封筒を差し出した。真冬は神妙な面持ちで封筒を受け取ると、廊下の壁にもたれ掛かるようにして、中の便箋を取り出した。

 素早く目を通していくうちに、真冬の表情が驚きの色に染まっていく。口元がわなわなと動いてる。


「……っ、ちょっと、待ってて!」


 真冬は小さく叫ぶと610号室の扉を開け、慌てるように中へと飛び込んで行った。逢坂部は彼女がもたれていた場所を準えるようにして壁に寄りかかると、その後の経過を見守った。

 そのまま待たされること数分。

 再び病室の扉が静かに開くと、帆夏の母親が顔を出してくる。


「帆夏も会いたがってると思うので、入って下さい」


 母親が控え目にそう告げた。逢坂部は会釈で返すと、彼女の後ろにつき従った。初めて足を踏み入れた帆夏の病室は、白い壁と天井で覆われていて、気後れする程に明るくて、一瞬だけ目が眩んだ。

 規則的な周期で奏でられる、幾つかの電子音が鼓膜を打った。病室の中は思いのほか広くて、また暖かくて、不思議なほどの静寂に支配されていた。

 淡い黄色のカーテンを真冬がゆっくり開くと、その陰から見えたベッドの上に、白木沢帆夏が横になっていた。

 自発呼吸ができるとはいえ、口元には酸素マスクが付けられている。事故前に見たときと印象はさほど変わらないが、髪は少し長くなり、点滴の管が数本刺さった腕は、少し痩せたように思える。


「姉さんが惚れてた相手って、あんたの事だったんだね」と真冬は言った。「もっと早く言ってくれれば、それなりの対応をしたのに」

「俺と帆夏を結びつける繋がりなんて、ひとつでも少ない方が良いだろうと思っていたんだ。だから、うまく言い出せなかった。すまん」


 ベッドの傍らに立つと、帆夏の顔を、その姿を確認するように見下ろした。

 こうして見ると、ただ眠っているだけのようだ。

 苦しそうな顔をしていないだろうかとずっと心を痛めていたが、思ったより穏やかな表情だったことにホッと胸をなでおろした。

 時々笑みを浮かべるんですよ、と母親は言っていたが、結局、目を覚ますあの日まで、彼女が笑うことは一度もなかった。

 けれど、その綺麗な顔が歪むことも決してなかった。


 だから逢坂部は……それで良かったんだと、今も思っている。


 壊れ物にでも触れるように、そっと帆夏の手を握る。

 想像していたよりは温かい。だが、逢坂部の記憶に残っている彼女の手のひらよりも小さく、繊細に思えた。反応を示さない指先に触れているうちに、ぐっと胸が苦しくなった。

 目の前に居るのは、間違いなく白木沢帆夏その人で。

 だが、口元に当てられた酸素マスクが。その細い腕に何本も繋がれた点滴の管が。細くなった指先と、鎖骨が浮き出た首元が。開くことのない瞼が。それら全てが、宮古の民宿で過ごした()()の白木沢帆夏とは違うという現実を突きつけてくる。

 それでも、と逢坂部は思った。

 帆夏の手をきつく握って彼は思った。段々と、視界が滲み始めたその中で。けど、溢れ始めた涙は次から次へと零れ落ちて、彼は声を上げて泣き始めた。みっともない姿だ、と思うも止められず、嗚咽を上げて泣き続けた。

 それでも、と彼は思う。帆夏のことが好きだと。浄土ヶ浜の海で囁きあった愛の告白が、たとえ嘘偽りの記憶であろうとも。民宿で肌を重ねたあの夜が、背中から抱きしめた彼女の身体が、たとえ幻想であろうとも。

 俺が白木沢帆夏を『愛している』。この事実に嘘偽りはないのだから。

 彼女が答えてくれないことは知っていたけれど、「ゴメンな」「すまなかった」そして、「迎えに来たよ。愛してる」と、何度も、何度も耳元で囁いた。


 逢坂部の言葉は、彼女が目覚めるあの日まで耳に届くことはなかったのかもしれない。それでも彼は、次の日から毎日のように、何度も、何度も、同じ台詞を囁き続けた。


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