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あの日見た空の色も青かった  作者: 木立 花音
第三章:彼女の真実に触れる十数日間
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事故当日の記憶

 こうして十三日間滞在した民宿をチェックアウトした逢坂部は、スクーターバイクに跨がり、再び盛岡市を目指していた。

 白木沢帆夏が入院している病院は、盛岡医科大学病院の610号室だ。完全に記憶が戻った今ならば分かる。彼は彼女の病室に向かうのは初めてではない。

 ただ単純に、忘れてしまっていただけだ。

 何故、彼女と再会した後も、断片的にしか記憶が戻らなかったのか。また、事故があった日から後の、彼女に関する内容だけがぽっかりと穴を穿つように記憶の中から抜け落ちていたのか。双方の根底にある要因、それこそが──心因性記憶障害。

 逢坂部が抱えていた精神疾患によって部分的に欠落していた記憶こそが、帆夏に関連した内容だったということだ。


「くそっ」


 思わず悪態が口をついて出る。

 愚痴が漏れ出る理由は、幾つかあった。

 スクーターバイクのスピードが出ないこと。帆夏に関する記憶を大半失っていたこと。そして、民宿で彼女と過ごした最後の日、自分から別れを切り出したことだ。


 浄土ヶ浜に到着した八月の頭から今日までの間に、帆夏が存在していない事を示すヒントは、あちこちに内包されていた。

 第一に彼女は、と逢坂部は考えを巡らせる。俺以外の誰とも会話をしていなかった。

 この仮説を否定する場面を記憶の中からあげるとすれば、老人に道を教えていた時の帆夏だが、あれだって教えていたように見えるだけで、最後に手を振っていたのも一方的だった可能性が高い。そもそも彼女は、本当に道を教えていたのか? 何か不可思議な力で、老人にヒントを与えただけなのでは? とすら思う。

 民宿の前で、美奈子と遭遇した時だってそうだ。帆夏は彼女と擦れ違う時に会釈を送っていたが、美奈子は帆夏と視線すら合わせなかった。その後、逢坂部と交わした会話でも、美奈子は彼に、『恋人は居るの?』と尋ねた。さっき擦れ違ったのが恋人なの、とは言わなかった。

 だが、ラブホテルのチェックイン時は、特別怪しまれることもなかったように思う。単純に、単独の宿泊客だと判断されただけなのだろうか? 他にも不自然な点は多々ある。二人で入ったラーメン店。ざっぱ船。俺の目にだけ、食べているように見えた。ライフジャケットを着ているように見えた。それだけのこと、なのかもしれないが。

 それでも確実に言えるのは、白木沢帆夏は今現在も盛岡の病院で眠っているという事。ゆえに、彼女を撮影したはずの三枚の写真には、背景の海や空しか写っていなかった。

 では、十数日間共に過ごした帆夏は何だったのか、と自問したところで、納得のいく結論を与えるのは不可能だ。霊魂、若しくは生霊のような存在だったのか。帆夏の力によって歪められた記憶、はたまた夢や妄想の類だったのか。いずれにせよ、現代の科学で証明できることではないのだから。


 彼女と過ごした日々の記憶を、鮮明に思い出す事が出来るだけに、不思議な体験だった――としか、言い様がない。


 一方で帆夏は、自身が置かれている状況を把握しているような発言も見せていた。

 だから将来の夢を訊ねたとき、彼女は『無い』と答えたし、交際を二年待ってくれと告げた時も、『頑張って生きる』と言ったのだろう。

 なんにせよ、これだけは言える。どうせ夢で終わる関係だったのならば、彼女とは恋人のまま別れるべきだった。

 あの別れの一言を告げた前と後とでは、あまりにも世界が変わりすぎていた。俺が余計な事を口走ったばかりに、帆夏が良い夢を見られていなかったとするならば……と逢坂部は唇を噛んだ。

 それは全て俺の責任だ。一生拭うことのできない、俺の過ちだ。


 彼女の為と思ってした別れの決断だったが、本当にそうだったのか? 自分の将来に自信が持てないから、言い訳をこじつけて逃げを謀ったんじゃないのか? ずっと自問自答をし続けた。

 もう少し、深く考えるべきだった。今更後悔しても後の祭りだが。

 結局のところ、と彼は思う。美奈子の時と同じ間違いを犯してしまったのかもしれない。まったく成長していない惨めな自分の姿に、心底嫌気が差していた。ぎりっと奥歯を噛み締めた。


 スピードの乗らないスクーターバイクに舌打ちを繰り返しながら山道を走り続け、ようやく盛岡市に入る。燃料タンクが小さいので、途中で給油を行う羽目になった。

 ふと逢坂部は、宮古市を出発する直前に、白木沢真冬に言われたことを思い出す。

 真冬は、『母親は病院側に、面会拒否の意思を伝えているから、受付に行っても病室は案内して貰えないよ』と前置きをした上で、入院当初と病室が変わっていない事を教えてくれた。


『だから受付には行かないで、直接610号室に行っちゃいな。但し――』と真冬は口添えた。『お盆休暇の間中、姉さんの病室には身の周りの世話のため母親が付き添ってる。あんた、かなり親に恨まれてるから、面会を許して貰えるかわかんないよ? それなりの覚悟はしておきな』


 確かにそうかもしれないな、と逢坂部は思う。けど、それで良いさ。元々親の許しも得ないまま、面会させて貰おうとは考えてない。……思えば、今年の春に帆夏の病室に向かった時も、門前払いをされたんだ。そうして彼は、事故当日の記憶をたどっていった。


◇◇◇


「逢坂部君、今週末の観光バスの運転手、君にお願い出来ないだろうか?」

 上司のこんな発言から、全ては始まった。

「俺は、観光バスの運転をした経験は有りませんよ? 他に誰か居ないんですか?」


 後頭部をかきながら顔を上げた俺は、デスクの脇に佇む上司に難色を示した。けれども彼は人手不足を理由に、「頼むよ」と繰り返しながら俺の肩に手を置いた


「気持ちは分かるけれどね……。今はほら、インフルエンザが流行している関係上、休みが多くて人手が足りないんだ。本当は山本君に担当して貰う予定だったんだが、彼は昨日から熱を出して休んでいるだろう?」


 こう何度も頼まれると、立場上、無下に断るのも難しい。決然とした思いで覚悟を決め、溜め息混じりに了承した。


「……わかりました。なんとかやってみましょう。後で、予定ルートの地図と時間割、回しておいて下さいね」


 こう言って承諾はしたものの、正直内心は不安だらけだ。俺が普段運転しているのは定員二十数名の中型路線バスなのだが、今週末に任された観光バスは、定員三十名以上の大型車両だ。同じバスでも全長が異なるので勝手が違う。

 おまけに目的地は長野のスキー場で季節は一月だ。間違いなく凍結路も走行することになるだろうが、埼玉生まれの俺に積雪・凍結路の運行経験は無い。

 考えを巡らしていくほどに、心の奥底に重石が沈んでいくようだった。日々、不安ばかりが募っていった。回してもらった運行予定表に目を落としながら、俺はずっと思い悩んでいた。


 悪い出来事ほど重なるもの。当日は、生憎の悪天候となった。

 出発地点の埼玉こそ雨だったが、目的地である長野県の天気予報は雪だった。

 それに加えて乗客の定員オーバー。乗車定員三十二名のバスに対してツアー客は四十六名。「……あり得ない」俺の口からも自然と愚痴が零れる。

 元凶は無理なツアーを押し切った旅行会社にあるんだろうけど、頼む方が頼む方なら、受ける方も受ける方だ。自身のバス会社にも責任はあった。


 鬱々とした気持ちを必死に抑え、慣れない車両のハンドルを緊張気味に握る俺。唯一良かった点を挙げるとすれば、ツアー客の中に、あの女子大生が居たことだろうか。


「御勤め、ご苦労様です」と言ってバスに乗り込んで来た彼女は、珍しく二言目を呟いた。「この会社の観光バスだったので、もしかしたらと思ったんですが、やっぱり逢坂部さんだったんですね」


 頬を紅潮させながら、にっこりと微笑む女の子。冬休みの間に伸ばしたのだろうか、彼女の髪は肩の下まで伸び、眼鏡をかけていなかった。だから俺は、毎日のように運転している路線バスで声掛けをしてくれる女子大生だと気がつくまでに、若干のタイムラグを要した。


「君は確か……」と俺が緊張気味に訊ねると、女子大生──白木沢帆夏は、「宜しくお願いしますね」とだけ告げて、友人と二人で運転席の左斜め後ろに席を取った。そこが彼女の特等席だと知ったのは、後々のことだ。


 予想外のラッキーな出来事に心は弾み、これは何時も以上に安全運転をしなければいけないな、と俺は思った。

 高速道に乗り埼玉県を抜け、長野に入ってから高速道を下りる。後はひたすら国道を走行して行った。天候は次第に雨からみぞれ、やがて雪へと変わって行く。それでも整備された大きい道路を走っているうちは、何の問題もなかった。

 時々斜め後方から聞こえてくる彼女と友人の楽し気な笑い声に、憂鬱な気持ちを癒されながら、俺は運転を続けていた。


 問題が起こり始めたのは、スキー場もやがて近づき、山間部に差し掛かってからだ。

 定員を遥かに超える乗客は、通路中央の補助椅子での乗車。若干の立ち乗りをも発生させ、はっきり言って車体後方と左側面の視界が悪かった。

 更に悪くなる一方の天気。雪はやがて強い風を伴った吹雪に変わり、視界不良はより一層酷くなる。それでも俺は必死にハンドルを操って、狭いコーナーを通過して行った。

 目的地であるホテルが近づいた時、遂に運命の急カーブに差し掛かる。

 林と吹雪で最悪の視界。

 慣れない凍結路。

 定員オーバーのバス。

 並べ立てれば言い訳は幾つでも出来る。それでも結果として、俺のミスだった事は否めない。

 急な右カーブに差し掛かった時に、左側のガードレールが気になった。そして目測を誤ったかもしれないと気が付いた時には、右の前輪が既に脱輪していた。

 この時も不運が重なる。せめて、右側の路側帯にガードレールが設置されていれば、車体が滑落することは無かったはずなのだ。

 定員オーバーだったバスはあっという間にバランスを失うと、片側に少し傾いた状態で急斜面を滑り落ちて行く。俺は、左斜め後方に座る彼女に手を伸ばした……そんな記憶が残っている。特定の乗客だけを気遣うのは職務怠慢なのだろうが、とにかく必死だった。

 たが、重力には逆らえない。車体左前面から下の地面に激突したバスは、左側面を下にするかたちで横転して止まる。

 最後の瞬間、彼女の指先に手が触れたような気もする。だが自らも重症を負い意識を失ってしまったため、今となっては、良く思い出す事ができない。ハッキリと覚えているのは、意識を失う間際、「彼女が無事であって欲しい」と強く願ったことだけだ。


 意識が戻った時にはもう、病院のベッドの上だった。車体右側の損傷が大きくなかったことが幸いしたのか、俺は数日間生死の境を彷徨ったものの、なんとか一命を取り留めた。


 そこから先、数か月間の入院生活が地獄だったのは、前述した通りだ。

 塞ぎこむ日々の中、重症を負って意識の戻らない女子大生──白木沢帆夏が、バスの車内で出会う少女だったと知ったのは、退院も間近になった頃だったろうか。

 ある週刊誌に、彼女の記事が顔写真付きで掲載されていたことから、二つの情報が線で繋がった。

 犠牲者への対応に優先順位を付けるようで憚られたが──それでも俺は、彼女と友人の情報を慌てて精査した。白木沢帆夏が盛岡の病院に入院している事。彼女の友人が、命に別条は無い事を突き止めた。


 生きていたことを嬉しいと思った反面、植物状態からの回復は、然程事例が無いと気が付き愕然となる。それでも、彼女の顔を一目見たいと思った。手を握り生きていることさえ確認すれば、容態もそのうち好転する。そんな甘えた考えに捉われていた。


 退院してすぐさま俺は、盛岡市に向かう。

 高速道路を七時間も飛ばして、白木沢帆夏が入院している盛岡医科大学病院を目指した。

 病院に到着し、エレベーターを降りて病室の前まで辿り着くと、彼女の母親らしき人物が居た。深々と頭を下げて謝罪を述べた後、帆夏さんに面会させて欲しいと申し入れる。


 門前払いだった。


「あなただけを責めるつもりはありませんが、もう、そっとしておいて下さい。娘、帆夏は脳に損傷があり、この先意識が戻るかすら微妙なんです」

「そこを何とかお願いします! 顔を見るだけでも良いので!」


 何度も懇願して食い下がるが、母親は終ぞ聞く耳を持ってはくれなかった。まさか力づくで入る訳にもいかず、俺は傷心を抱えたまま埼玉に戻る羽目になる。


◇◇◇


 今思えばこの時に負った深い心の傷により、彼女に関する記憶の殆どが、欠落してしまったのかもしれない。

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