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あの日見た空の色も青かった  作者: 木立 花音
第二章:彼女と別れるまでの十数日間
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別れの日 八月十二日

 西に傾いた陽の光が和室の窓から射し込み、畳の上が橙色に染められていた。

 部屋の中にあるすべての物の影が長く引き伸ばされている。光と影。二つの色にくっきりと塗り分けられた様子は、二人の行く末を、暗示しているようでもあった。


 八月十二日。

 今思い出そうとして心の中の抽斗(ひきだし)を探ってみても、この日の記憶は実に曖昧なものだ。

 民宿の自室で、帆夏と二人きりで過ごした最後の一日。しかし、テレビで流れていた番組の内容も、帆夏と二人で食べた昼食のメニューも、穏やかな声で長い時間会話をした内容も、断片的にしか思い出すことが出来ない。挙句の果てには、彼女が着ていた服装すらも、今一つ不明瞭なくらいだ。

 下が何色かのショートパンツだったのは記憶しているのだが。精々、そんなところだ。

 それだけ彼は興奮しきっていて、特に何かを考えることもなく、漫然と時間の経過に身を委ねていたのだろう。

 見方によっては、一番幸せな時間だ。腕の中に帆夏が居てくれるだけで、楽しかった。何か適当に会話をしてさえいれば、それだけで満たされていた。


 身体全体に感じる心地良い重みで、逢坂部は目が覚める。柔らかい夕陽が、民宿の窓から入り込んでいるのが見えた。

 重さの正体を探るようにして瞼を開けると、自分に背中を預けるようにして眠っている、帆夏の頭が見えた。

 そうか、俺達は座ったままの姿勢でうたた寝をしてしまったのか、と認識すると同時に、よくこんな体勢で倒れこまなかったものだな、と他人事のように感心した。何時なのだろうか? そう感じて壁の時計に目をやると、十六時を少し過ぎたところだった。

 逢坂部は、帆夏の髪の毛をそっと手で()いた。シャンプーの甘い香りが、ふわっと漂った。

 彼女が悪い夢を見ていませんように、と逢坂部は思った。

 思えば、彼女との出会いの日。八月一日も、こんな感じの出会いから始まったんだ。まさかこんなにも深く彼女と関係を持つことになるとは予想してなかったな、と懐かしく感じた。


 そして──この四日間の記憶に、思いを馳せていった。


◇◇◇


 八月九日。高崎美奈子と再会を果たし、思い出話に花を咲かせた翌日の朝。

 逢坂部が民宿の階段を下りて玄関口に到達すると、ソファの上には今日も帆夏が座って待っていた。

 顔を上げて「おはようございます」と挨拶を送ってきた彼女に、「盛岡の実家に戻るのは、何日になるんだい?」と訊ねてみた。彼女は「八月十三日の予定だよ」と答える。お盆に合わせて帰るのだという。

 そうか……淋しくなるな、と名残惜しく感じながらも、それまでの四日間は目一杯楽しもうよ、と二人で約束を交わした。



 二人は毎日のように、スクーターに跨って走り回った。

 早速この日向かったのは、宮古の駅前にあるショッピングモールだ。まともな服を殆ど持っていない逢坂部の為に、「私がコーディネートをしてあげます」と、帆夏が名乗りを挙げたのだ。

 何軒も洋服店を梯子しては、ティーシャツやポロシャツ、チノパンやらを買い込んだ。「今度からは、その服を着て出歩きなさい」と、彼女にしたり顔で諭される。逢坂部もお返しにと、若草色のワンピースを買ってあげた。帆夏は恥ずかしそうに俯きながら、「ありがとう」と囁いた。

 会計が済むと、彼女は直ちに試着室に篭った。買ったばかりのワンピースに袖を通すと、「逢坂部さん、逢坂部さん」と彼の名を呼んだ。


「どうですか? 似合ってますか?」


 と帆夏はくるっとターンして見せる。ワンピースの裾が、彼女の動きに合わせて綺麗に舞った。

「ああ。とても良く似合ってる」と正直に褒めると、彼女は頬を染めながらくしゃりと微笑んだ。太陽に向かって咲く、向日葵のような笑顔だと思った。



 八月十日は、映画を見ようと話をした。この日は珍しく小雨の降る日であり、少し濡れながらもバイクで向かった。

 場所はやはり宮古の駅前だ。……というか田舎なので、他に行くべき候補が無いとも言えるのだが。白い壁で覆われた、実にこじんまりとした映画館だった。

 上映されていたのは、ヒロインが難病に侵されているという設定の、有りがちな恋愛映画。小説を原作にもち、今年実写化された作品だった。

 ポップコーンを摘んで口に運びながら、ふと隣に視線を向けると、帆夏は人目も憚らずに号泣していた。自身も切ないと思いながら鑑賞していたのだが、そんな気持ちも一気に吹き飛ぶくらいに可笑しくなって笑った。

 彼女は酷いと言って怒っていたが、素直に感情を表現出来るところを見ていると、やはり心の優しい女の子なんだろうなと、改めて感じた。


 どうしたことだろうか。

 帰りがけに一度だけ、彼女と二人で来ていたことを失念してしまった彼は、一人で映画館を出ようとして不満気に袖を引かれた。そしてもう一度怒られる。殊勝に頭を下げるほかなかった。

 


 八月十一日は、美味いラーメン店巡りだ。

 実に無謀な話ではある。お互いに食が細い方だというにも拘わらず、スマホで検索しながら三軒の店を梯子して回る。三軒めに入ったとき既に満腹に等しい状態だったのだが、それでも一杯のラーメンを注文すると、二人がかりでどうにか完食した。

「ラーメンはしばらく、見たくもないですね」と彼女は、お腹を擦りながらぼそっと呟く。

 宮古市内を出発し、スクーターバイクの二人乗りで郊外の林の中を通り掛かった時のことだ。昼でも薄暗さを感じる常緑樹の根元に、一人佇む女性の姿を目撃する。

 黒いワンピースを着た、年の頃二十代後半くらいの髪の長い女性。即座に逢坂部は、宮古市を訪れた初日に見た女性だと確信した。同時にこの女性は、やはり『こちら側の住人』ではなかったのだ、とも。

 そう、彼には多少の霊感があった。とは言え、見えるものの大半は害のない霊だ。そのことを長年の経験から知っている彼は、多少、幽霊が見えたとしても畏怖や恐怖の感情は抱かないし、彼らに過度に同調すべきじゃないことも知っていた。

 目線を合わせないようにしてやり過ごし、完全に通り過ぎた後で、彼女の冥福を祈った。霊を見るのは初めてでは無いが、あまり良い気はしないものだな、そう思っていた矢先のこと。


「今そこの林のところに、黒いワンピースを着た女性が居ませんでしたか?」

 背中から聞こえてきた帆夏の声に、彼は驚いた。「帆夏ちゃん、あの人の姿が見えたのか?」

「え? 見えますよ、そりゃ。何か可笑しいんですか?」

「可笑しいも何も……」


 自分には霊感がある事。黒いワンピースの女性は、あの地に縛られた地縛霊であろう事を、順番に彼女に説明していった。


「霊感なんて、あったんだ?」

「さあ、どうでしょう? 幽霊が見えたのは、今日が初めてですよ。でも、あの人。きっと事故で亡くなった人ですね」

「そんな事まで分かるのか?」

「まさか、なんとなくですよ」と言って彼女は笑う。

「それは得意の読心術かい?」と皮肉めいた口調で彼は言った。「まあ、見えるとは言っても、俺も彼女の姿を見るのは八月一日以来の事なんだが」

「そうだったんですね。八月一日にやって来た幽霊が、お盆の終わりと共に送られる。そういう感じに、彼女も成仏できたら良いですね」


 帆夏の言葉に逢坂部は、そうだな、とだけ呟いた。



 時は、瞬く間に流れた。気がつけば、八月十二日を迎えていた。

 楽しい時こそ時間の経過を早く感じるとはよく言ったもので、そのことを逢坂部は身を持って体験していた。

 遂に明日、帆夏は盛岡にある自宅に帰ってしまう。決して今生の別れではないものの、やはり淋しい、そんな感傷的な思いに捉われていた。

 その日は朝から蒸し暑い一日だった。天気予報によれば、列島を高気圧が覆い尽くしており、記録的な猛暑になるでしょう、と報じていた。それでも二人は、民宿の部屋に篭ったまま常に身体を寄せ合い、決して離れようとはしなかった。何故ならば、二人で約束を取り交わしていたからだ。最後の日だからこそ、敢えて特別なことはせず、ささやかな幸せを噛み締めながら、ゆっくり過ごそうと決めていたのだ。ただ彼女の細い身体を背中から抱きしめて、買い込んでおいたプリッツのサラダ味を齧りつつ、ずっとテレビを眺めていた。


 彼女は「至福の時です」と何度も囁いた。

「どうしてだい?」と彼は尋ね返す。

「バスの座席から背中を見ているだけだった逢坂部さんが恋人になってくれて、しかもその体温を背中で感じられるんです。これ以上の幸せがあると思いますか?」そして彼女は首を横に振った。「いえ、ありません」

「俺には勿体無い言葉だ」

「死んでも構わないくらいです」

「変なたとえはやめてくれ。君が死んだら俺が悲しむ」

「そうですか──じゃあ、やめておきます」そう言って彼女は、ふふ、と笑った。


 やがて午後になると、帆夏は逢坂部の膝の上で眠りこけてしまった。遊び疲れていたのだろうか、と彼は思う。彼女の寝顔は、とても穏やかだった。次第に失われ行く時間の事を思うと、純真無垢なその姿に、胸が苦しくて、張り裂けそうになった。けどしばらくは、起こさずに放っておこうと思った。


「今のうちに、幸せな夢をたくさん見るんだ」と彼女の耳元で囁いた。


◇◇◇

 

 そして、そのまま彼も、眠ってしまったのだろう。

 逢坂部はそろそろ帆夏を起こそうかと少し悩んでから、止めておいた。彼女の寝顔を飽きることなく、ただ、眺め続けた。眼前に彼女の顔がある距離だと、長い睫毛の一本一本までを見定める事ができた。

 いや、そればかりではない。桜色の綺麗な爪先。薄くて柔らかい唇。口元にある小さなほくろ。漂ってくる香水の匂い。白磁のごとく、白くてきめ細やかな肌。自分だけが知っている彼女の全てが愛おしい。


 窓の外へ視線を向ける。

 まるで奇跡のように美しい夕陽だった。世界中の全てが、赤く染まっているように見えた。まだ目覚めなくても良いよ、と彼女に囁いた。今のうちになるべくたくさん、幸せな夢を見るんだ。もう一度そう願った。


 幸いにもこの四日間は、概ね天気も良かった。蝉の鳴く声が和室の隅々まで染み渡り、涼しい風が、時折窓から吹き込んでいた。畳のい草の香りと、彼女の髪から漂う香水の甘い匂いが、混じりあって鼻腔をくすぐる。

 幸せだった。

 この時間が、永遠に続いて欲しいと願った。

 彼女さえ居てくれれば、他には何も要らないとさえ思えた。


 ──だからこそ。この幸せの絶頂の中でしか、伝えることは出来なかったんだ。


 時計の針が十七時を指した。秒針の進む音が部屋の中に響いていた。蝉の鳴き声は大半がヒグラシに変わり、吹き込む風は涼しさを増した。射し込む光が弱々しくなり、空が藍の色に染まり始めた頃、瞼が薄っすらと開き彼女は目覚める。


「私、何時の間にか寝ちゃってた……」


 恥ずかしそうに呟いた彼女の背中から、両腕を回して抱き寄せる。意識はしていなかったが、何時もより強く、力が込められたのだろう。その様子に嫌な空気でも感じ取ったのか、彼女は振り返ると彼の名を呼んだ。

「逢坂部さん?」しかし彼は目を閉じたまま、乾いた喉の奥から必死に声を絞り出した。



「帆夏。──別れよう」



 その瞬間。和室の中が水を打ったように静まり返った。

 もちろんそんなはずはない。これは錯覚だ。しかしそう思えるほどに空気は緊張し、彼女が喉を鳴らす小さな音ですらも、やけに鮮明に聞こえた。


「え……? 明日、私が盛岡に帰るから……そういう話でしょ?」信じたくない、そんな顔を向けてくる彼女の瞳が揺れる。

「そうじゃない。恋人としての関係を、一度白紙に戻そう。そういう話だ」

「……どうして!?」


 帆夏の瞳にはっきりとした拒絶の色が浮かぶ。イヤイヤと(かぶり)を振って否定の意を示す。


「私、こんなに逢坂部さんのことが好きなのに、なんで別れなくちゃいけないの? 私のこと嫌いになったの?」

「違う、そうじゃない。君のことは愛している」

「じゃあ、どうして? 全然意味がわかんないよ」


 帆夏は背中から回されている逢坂部の手を反射的に掴んだ。睨みつけるように見上げた彼女の瞳は、今にも泣き出しそうだ。

 それでも──ここで妥協してはダメだ。怯みそうになる心を奮い立たせる為、抱きしめる腕に力を込めながら、彼は次の言葉を紡いだ。


「二人の距離が離れてしまうから、とか、君はまだ19歳だから、とか、そういうのも一因だ。でもやはり……俺は執行猶予中の身なんだ。このまま交際を続けるべきではないと思う」

「イヤだ! そんなの絶対にイヤだ!」今度は、より明確な拒絶の言葉だった。「私、そんなこと気にしないって言ったよね? だったら、いいじゃん。このまま恋人で居させてよ……」

「お願いだ、分かってくれ。随分と悩んだんだ。考えに考えを重ねて出した結論だ。俺だってもちろん、帆夏のことが好きだ。今直ぐにでも君を抱きたいと願っている。……でも、このまま関係を続けていると、きっと君に甘えて寄りかかってしまう。自分を追い込むためにも、一度別れて、距離を置いた方が良い」

「決心は、変わらないの?」

 わなわなと震える唇。言葉に詰まりそうになる自分を叱咤する。

「ああ、変わらない」


 帆夏は最早、涙を抑えられなくなっていた。堰を切ったように双眸から零れ落ちる涙が胸元までを濡らし、口からも嗚咽が漏れ始める。

 彼女の細い肩を、その身体を抱きしめる逢坂部の視界も滲んでいた。


「心配しなくても良い。一旦、関係を解消するだけだ。二年……そう、二年だけ待って欲しい。その時に俺が何事もなく生活でき、君を守っていけるだけの生活基盤が出来上がっていたなら……必ず君を迎えにいく」

「二年なんて、そんなに長く待てないよ! 待てるわけ…………ないじゃん」

「うん。だからそれまでの間は──俺と、友達になって下さい」

「友達……?」彼女は必死に涙を堪えながら、顔を上げた。

「そう、友達だ。連絡先を交換しておこう。確かに恋人ではなくなるけれど、それでも俺は同じ空の下、ずっと君のことを想う。君に何か困った事が起これば、たとえ何処に居ても駆けつける。これから二年間、二人は親友だから」


 彼女は瞼を閉じると、胸に手を当てて『親友』という言葉を反芻した。一度喉を鳴らした後、擦れたような声を絞り出した。


「わかった、待ってる。それまで私達は親友だね? ()()()()()()()()()? 私、頑張って二年間生きるから。約束……ちゃんと守ってよね?」

「大袈裟だな」

「でも、生きてなかったら会えないでしょ?」

「確かに正論だ。ああ、約束する」

「二年か……長いな……。でも、頑張って待ってる」


 うん、うんと、何度も頷きながら、帆夏はしっとりと泣いた。若草の葉を濡らしていく霧雨のように、抑制された啜り泣きだった。

 そのまま暫くの間、涙を流し続けた。彼女の呼吸が、気持ちが治まるまで、ずっと抱きしめてあげようと彼は思った。やがて帆夏は震える指先で涙を拭い鼻を啜ると、今度は正面から抱きついてきた。


「早速、親友にお願いです……私のこと、抱いて欲しいの。私の処女(はじめて)、貰って?」

「それは、親友にするお願いじゃないな……」

「う~ん……意地悪。じゃあ、今日の間は恋人! それだったら、良いでしょ?」

「ああ、わかった」


 逢坂部は笑いながら快諾すると、彼女を抱き抱えて布団のある場所まで移動する。

 布団の上に優しく身体を横にすると、内巻きの髪を指先で弄びつつ唇を重ねた。直ぐに彼女も、彼の首に腕を回すようにして抱きついてくる。

 ブラウスのボタンを順に外して胸元を開くと、フロントホックの下着を外して首筋に口づけた。彼女の顔が、羞恥で真っ赤に染まる。お尻や太腿の形を確かめるように手のひらを這わせ、ショートパンツの上から優しく指先で触れた。

 和室に射し込む光は、完全に月明かりへと変化していた。元々色素の薄い肢体も彼女の横顔も、微光に照らされることで、より一層幻想的に白く輝いて目に映る。


 ──帆夏。君は、なんて綺麗なんだ。


 今だけでも君を、恋人だと思って良いだろうか?


 君のことを愛してると囁いても良いだろうか?


 そしてこの夜、二人は初めて結ばれた。

 帆夏と繋がった瞬間、彼は自分が生きてきた二十五年間の意味を悟ったような気がした。ほんのりと上気した彼女の顔を見下ろしながら、二人の存在の全てが融合し、分かち合えたような気がした。

 けれど、自身が抱えた罪の重さと現実が、目を逸らすなと言わんばかりに彼の胸中を圧迫すると、堪らなく悲しくなって涙が溢れた。


 別れを切り出した彼の胸も、本心では張り裂けそうだった。

 抱きしめている帆夏の身体から伝わるぬくもりを肌身で感じながら、彼女の想いを、その魂を、何処に持って行けば良いのか。どうやって護ってあげれば良いのか。まったく見当がつかなかった。

 彼女の存在の全てが手の中にあるのに。大切な君は確かに目の前に居るのに。それでも、どうしてもあげられない自分の無力さが堪らなく辛かった。


 俺だって本当は、君と一緒に過ごしたいんだ。

 だが、そんなささやかな願いですらも、叶えるための障害は大きい。俺は有名になりすぎたんだ――悪い意味で。

 企業の採用試験を受ける際、前科の有無について報告する義務は確かにない。

 しかし俺は違う。加熱したマスコミの報道で情報は広く知れ渡り、もはや隠すことも難しい。『八人の命を奪った犯罪者』だという貼られたレッテルが、今後一生涯つき纏う。ついた執行猶予期間なんて、なんの気休めにもならない。

 向けられるのは非難の目。

 畏怖の感情。

 この世界は不条理なことで満ちている、と呪いたくもなるがこれが現実。本当にまともな職に就く事ができるのか、人並みの生活を送れるようになるのかわからないんだ。所帯を持つなんて、夢のまた夢。

 二年経ったら迎えに行く、とは言ったものの、この約束だって守れるかどうか定かではない。

 もしかすると、いや……間違いなく、今日、別れを告げたことが、この先も彼女を苦しめることになるだろう。

 だがそれでも、と彼は思う。俺と同じ場所で過ごすよりは、辛い経験をしなくて済むだろうとも。だからこその決断だ。苦しいだろうけれど、俺だって苦しいけれど、もう少しだけ待って欲しい。

 君が惚れてしまった男が、こんなに最低な人間だったことを……本当に申し訳ないと思う。すまない、帆夏。快楽の波に溺れ行く意識の中、何度も、何度も囁いた。


 そのまま二人で抱き合いながら、夜を過ごした。

 明日は笑って別れようね、と二人で誓い合うと、泣きながら眠りについた。

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