駒
龍馬が越前から戻って来たのは十一月二日だった。
土方は坂本龍馬を警護する為に、原田左之助を先鋒に置く。
更に情報を集める為、斉藤一は理由を聞かずに、間諜として尚も御陵衛士として潜入する。
以蔵は新撰組を仮宿として、土蔵を借りている。
そんな十一月初旬、当の龍馬は相変わらず土佐藩邸には寝泊まりしていない。
寺田屋から藩邸の近くの近江屋に宿を移してはいるが、後藤の言葉を無視して未だに寄り付かない。
事件の始まりはその近江屋で起きた。
「坂本さん、客人ですが…」
「藤吉かぇ…? 誰ぜ?」
「御陵衛士の…伊東殿とか…」
「御陵衛士じゃと? そげな所に知り合いは居らんが?」
近江屋に訪ねて来たのは、紛れもない伊東甲子太郎だった。
「今日は坂本殿に情報を持って来ただけですよ…」
藤吉の背後には、既に伊東が立っていた。
「ま…まだ上がって良いとは…」
「藤吉、えいちゃ…。伊東殿じゃったの、入られ」
龍馬は火鉢の近くから動かない。
「藤吉もここに居り…。ワシの警護じゃろ」
そう言うと、火鉢の周りに座布団を二枚放り投げる。
その座布団を見た伊東は、季節外れの汗を一筋流して口元を怪しく歪める。
「伊東殿、どういたがじゃ? 何やら汗を流しちょるが?」
「いや…何でも無い」
伊東はこの男の野生の勘を肌で感じた気がする。
「藤吉殿、拙者は構わない。何も坂本殿を斬りに来た訳では無い…」
「真昼間じゃ。斬るつもりは無いじゃろうな」
龍馬は大きく笑う。
『何と言う男だ…』
斬るつもりで来ていない事を前提に、護衛を近くに置く。
更に何らかの企みがあるかの確認も同時にやってのける男、坂本龍馬。
「ほいで? ワシに何の情報じゃ?」
不意を突かれたように、伊東はピクっとする。そんな状況を龍馬も見落としていない。
「…新撰組です」
「ほう、この京の人斬り集団かえ」
「ええ、その新撰組が…坂本殿を狙っております」
「ほぉ! ワシをかえ! 有名になったもんじゃの!」
その龍馬の態度に伊東は若干混乱した。
『この男、恐怖心が無いのか!?』
当然である。当の土方が「放免」を約束したのである。信用するに値する男だと言う事は分かっている。新撰組に斬られる恐怖心など、皆無である。
しかし、その安心感が後に重大なミスに繋がるのだが…。
「で? ワシに警護を増やせっちゅうがか? いや…御陵衛士自らが警護してくれるがかの?」
龍馬は薄らと笑みを浮かべ、伊東を見る。
伊東は策を実行できない。完全に伊東の策を崩されている。しかし…最後の一手を伊東は持っていた。この一手で、完全に主導権を握る。
「拙者らは立場上、警護はできません。新撰組より別れた一派である故…。しかし、幕府側の剣客集団がお主を狙っておるのは事実。お気を付け下さい」
伊東はそう言いながら、藤吉をチラリと見る。
気が気で無いのはその藤吉である。
尊敬して止まない龍馬が斬られるという話しは、あまり聞きたくないのである。
そわそわしている藤吉を、伊東は確認した。
『詰んだ…』
その心の叫びを、誰もが聞き取れなかった。
伊東が去った後、藤吉は龍馬に声をかける。
「坂本さん…警護を…増やした方が良いのでは…? あの、以前お話をしていた岡田殿とか…」
「いかん、いかんちゃ…。以蔵殿は巻き込んだらいかん」
友を思い、刻の渦から遠ざけようとする龍馬。
そう、伊東が最後に選んだ駒は、『藤吉』だった。
新撰組・藤吉…全ての駒は、伊東の操るままに動いて行く…




