大政奉還
九月下旬。土佐の山内容堂は決意を固め、大政奉還建白書を記す。
その時の容堂は、純白の裃を纏い、朝から酒を一滴も口にせず硯に向かい、一気に書き上げた。
一方の龍馬は容堂公と面会した直後、土佐藩船を使い大勢の郷士を引き連れ、薩摩藩経由で長州へ渡る。これは中岡に頼まれていた事でもあり、陸援隊の希望者を長州にいる中岡の元へと連れて行くという訳もあった。
この様を見た西郷達は、遂に容堂公が動いたと目を輝かせた。
最早、正史の流れとかけ離れた動きとなっており、薩長土連盟が崩れる事は無かった。
十月に入る頃、龍馬は越前の松平春嶽公と面談。新政府の体制を整える準備に取り掛かり、後藤は容堂公の認めた建白書を手に、入京する。
そして、遂に大政奉還建白書が徳川慶喜の手に渡る事になる。
慶応三年 十月三日の事だった。
この頃の京の町では、「ええじゃないか・ええじゃないか」という囃子に乗り、踊り回る町人達が溢れて来る。
情勢不安や世直しという流れの文句も出て来るが、討幕派が仕掛けた混乱の為の陽動では無いかとの噂もある。無論、どれが真実なのかは分かってはいない。
そして、その騒ぎの京で同月十三日、上洛中の四十藩の重臣を二条城に召集、大政奉還を諮問した。
どの藩の重臣も困惑した。先見のある土佐藩容堂公が認め、更にその建白書を徳川将軍自らが持ち出しての諮問…。答えられる筈が無い。
ざわつく二条城。
既に幕府としての権威を落としている事を勘付いている将軍。決定打は出ないまま、慶喜のイラつきが増して行く時、二人の男が声を上げる。
「恐れながら…」
その声に二の丸御殿は静まりかえる。
「今、この時こそ、ご決断なされるべき時かと」
そう口にしたのは、土佐と盟約を結んだ、薩摩の小松清廉。
「このままご英断を伸ばされますと、勢いに乗る討幕派は江戸への進軍を開始する恐れもございます故、ご決断を」
更に続くのは土佐藩後藤象二郎。
その二人が揃えて言う、という事は慶喜にも裏が見えて当然である。
建白書を出した土佐。長州との繋がりがある薩摩。この両藩が手を結んでいるとなると、背後には武力を担いでいる…。そう思われるように同盟を結んだ訳だが、慶喜にとっては四面楚歌である。
四十もの藩の重臣が集まるが、誰も口添えをせず、当の土佐藩・薩摩藩は手を繋いでいる様が見える。
「京では…ええじゃないかと叫びながら練り歩く輩が増えてるそうじゃないか…? 土佐・薩摩…両藩ともそれは知っておるか?」
慶喜は座ったまま二人に投げかける。が…無言のまま、頭を下げている。
そんな様子を見た慶喜は、ポツリと全員に言う。
「もう、良い…。下がれ」
多くを語らず、慶喜は奥に下がり、諸藩重臣を早々に追い出した。
翌、十五日…。
歴史は転換した。
薩摩藩西郷、長州藩木戸、土佐藩山内容堂、越前藩松平春嶽、…新撰組、御陵衛士、海援隊、陸援隊。
様々な思いを乗せた大政奉還が成った瞬間、それぞれが複雑な思いを噛みしめていた…。
「受け入れてくれたがか…」
京の近江屋で知らせを聞いた龍馬は、ふうっと息を吐き、階段へ腰を下ろす。
「これからじゃのぅ…。政権を返上しても、徳川は将軍のままじゃき、まず辞職して貰わにゃいかんがじゃ」
「辞職かえ…できるかの?」
「それは簡単じゃ。じゃが力の象徴でもある江戸城を明け渡せっちゅうがは、少々骨が折れるかも知れんが…。勝先生が居れば、何とでもなるがやろ」
「薩摩も長州も、今後の政府の事を考えちょる。長州は軍隊を、薩摩は政を、無論政府の中核には諸藩から有能な者をたて、その中から代表を選ぶいう発想も理解してくれちょるが、徳川が入る事だけは避けにゃいかんきの…」
「石川も随分気が回るようになったがやの」
龍馬は石川に向かい、笑い声を飛ばす。
「なんち、ワシがいつまでも武力討幕を狙っちょるとでも思うちょるがか!?」
「なんち、なんち…。力任せが石川の趣向じゃと思うておった」
龍馬は腕を組み、大きく笑う。その様を見て付き人兼護衛をしている藤吉という男も釣られて笑う。
「しっかりおまんは変名を持っちょるのに何故使わんがじゃ?」
「命の危険があれば使う。今は大丈夫じゃろ…。薩摩・長州、それに…」
龍馬は新撰組の土方を思い出していた。
彼らに狙われる事は無いだろう。危険なのはむしろ伏見奉行所である。最近特に見廻組が龍馬を探している、という情報も入っている。が…
「死ぬ時は、この命の役目が終わったと諦め、天に返すがじゃ」
そう言いながら軽く笑う。石川と呼ばれる中岡慎太郎は、複雑な表情でその男を見ていた。
「ワシは後藤さんの命で、そろそろ越前に向かうが…石川はどうするがじゃ?」
「越前…春嶽公かえ? いよいよ骨子を固めるがじゃな。ワシは暫く薩摩藩邸で今後の事を話さにゃいかんがじゃ…」
「長州の軍隊と、陸援隊かえ?」
「そうじゃ。陸援隊には薩摩藩からの藩士も加えるがじゃ」
「ほうか、ほうか。ワシも急がにゃならんのぉ…」
「所で龍馬よ…何故土佐藩邸では無く、近江屋で会うがじゃ?」
「藩邸は好かん。今は寺田屋に世話になっちょるが、どうやら先の騒動から目を付けられちょるきの…。越前から戻ったら、ワシは暫くここで世話になる事に決めたがじゃ」
「ま、一所に止まらぬ方が安全かもしれんのぉ…」
龍馬はこの後、十月二十四日から十一月五日まで京を離れ、越前に行く。
あの事件の十日前だった。




