江戸の以蔵
刻は少し戻り、後藤達が龍馬を捜索していた9月下旬、場所は江戸。
以蔵は暗殺阻止を終え、佐那と共に千葉道場に戻っていた。随分と長い間留守にしていた感じもあるし、最近まで過ごしていたような感覚も残っているが、その屋敷の匂いは懐かしい。
無論、以蔵達が日本の何処で、何をして来たか、執拗に食い下がる重太郎の態度も同様であった。
平和な日々が続き、以蔵は次第に『剣一』としての表情に戻り始めた頃、道場に客人が訪れる。以蔵はその二名の客人を部屋へと通し、人払いをした。
「お久しぶりです、中岡さん。その御方は…?」
「あぁ、ワシが江戸で知りおうた土佐の上士の方じゃ」
一人は中岡慎太郎。既に龍馬を通じての知り合いになっていたが、もう一人は全く知らない顔だった。
「ワシは乾退助と申します」
上士であるにも関わらず、この時点で郷士である中岡と行動を共にし、その身分をひけらかす態度は取らない。
眉と目じりが下がり、立派な鼻を持った男は、礼儀正しく頭を下げる。
「上士の御方が何故私に…?」
「今は身分などを語っておる時では無いですろう? ワシ等土佐の侍が結集し、幕府を倒さんといかんがです。その事は岡田殿も周知の事じゃと思うちょりましたが?」
下がった目尻で、キッと目に力を込める。
「乾殿、彼は生ける伝説の岡田以蔵じゃ。言葉全てに裏を読まんといかんがじゃ」
中岡は愉快そうに笑ったが、以蔵は至って普通に疑問に感じただけだった。
乾はスゥっと息を吸い、以蔵に語り始めた。
「土佐は今、薩長に続き政の中心へと躍り出んといかんがじゃ。無論、我が殿も感じておる所じゃが突破口が見えん。そこでじゃ。ワシは薩長を結び付けたとの噂を聞き付け、この中岡殿と接触…」
「薩長と土佐が盟約を結び、武力討幕へ向かう、という事ですね?」
以蔵が乾の言葉を遮って言葉を発する。乾は一瞬驚きの表情をするが、直ぐに平静を取り戻し返答する。
「…聞けば今回の顛末、岡田殿の妙案から光明が見出せたとの事…。そこでご協力を頂けないかと」
「薩長を結び付けたのは、そこの中岡殿と…坂本龍馬です」
以蔵が答えると、中岡がグッと太い眉に力を入れて言い返す。
「奴はいかん。大政奉還論等を持ち出し、何やら土佐藩参政殿まで妙な動きをしちゅう…。そげな藩論で纏まってしもうては、佐幕派として薩長から狙われ、軍備の整えの無い土佐藩は潰されるがじゃ」
「そうでしょうか…?」
以蔵は天井を仰ぎ見ながら否定論を思い描いていた。無論、その次に出る言葉を、中岡と乾は期待している。
「今、武力討伐として薩長土が盟約を結び立ち上がり、疲弊した幕府に追撃をかけた所で、戦地は江戸。反逆者としての戦いとなる」
「反逆などでは無い! 我等には大義が…」
乾の反論を、以蔵は右手を突き出し遮る。
「そうでしょうか? 当然、勢いは薩長土にあり、戦は有利に展開できるでしょう。しかし、その戦況を見た諸藩が、我先にと江戸へと流れ込み、戦の後の主権争いに発展しない可能性はありませんか? そこには大義など無い、欲の為の戦で累々と積み重なる民の犠牲が重なる事を予想してのお考えですか?」
その言葉に、二人は言葉を失う。
「薩長土に志あれど、風見鶏の如く勢いに乗じて参戦する諸藩を纏めるだけの大義など、どこにありましょう?」
「それは大政奉還論とて同じじゃ!」
中岡は膝を立て、怒号する。
「政権を朝廷に返上奉る…。ただそれしか考えていないのであれば…ね。しかし、今その論を説いているのは坂本龍馬だという事をお忘れなく」
乾にはピンと来なかったが、中岡には十分な言葉だった。龍馬が易々と混乱を起こすだけの論を力説する筈は無い。
「更に、その龍さんの言葉に土佐藩参政の力が加われば、どのような流れになるか…」
追い打ちをかける様に以蔵は続けた。
「政権を朝廷に返上した後の始末を、既に考えておるっちゅう事か…? ワシは萩で龍馬に会ぅて来たが、一言も言うちょらなんだ…」
「策の整わない論を、あの坂本龍馬が説き、重鎮を動かすとお思いですか?」
乾は、この短期間で坂本龍馬と言う人間性に興味と恐怖が湧き出た。
「坂本という男は、人を動かす天賦の才があるようじゃの…」
少し伸びている髭を擦りながら以蔵を見据える。
「志は同じでも道が違う。それでも行動を共にした方が、互いに利がある、という事もあるように感じられますが?」
以蔵の言葉で、中岡と乾はハッとし、即座に立ち上がった。
「もうお帰りですか?」
以蔵はニコっと笑い二人を見た。
「おまんに会いに来て正解だったがじゃ。道が見えたぜよ」
中岡は晴々した顔をし、乾を見た。
「ワシ等は坂本を探し、大政奉還という奴の論を利用し、幕府を倒すがじゃ」
「無論、倒すという意味を探るにも、龍馬の考えの底を見んといかんがじゃ」
早々に屋敷から出る二人の背中は、暗い宿命を背負った登場とはかけ離れ、希望を背負った物に変わっていた。
乾退助、後の板垣退助が表舞台に登場した瞬間だった。




