人斬りの後悔
半次郎は上段の構えから八双の構えに移しながら、以蔵の周りを動きつつ斬撃の機会を待つ。対する以蔵は、畳に着いた片膝を軸に、半次郎を常に正面に捕えながら回っている。
この状況では、以蔵の方が若干攻撃が遅れる。神速と言われる抜刀も、初撃を出すタイミングが遅くなれば、半次郎に有利になる。無論、半次郎はそれを狙っての構えであり、示現流の猛者ともなればその初撃は恐ろしい程の斬撃となる。
示現流と相対した場合、その初撃は外す事が必須と言われる。初撃を喰らった者の太刀は折られ、受けた自らの太刀の唾が、頭に喰い込んでいたとも伝えられる程の剣術。構えを取った時点で、以蔵は不利になっていた。
勝負は一の太刀で着く。
以蔵は身体を止めた。半次郎は、以蔵の左斜め前方で足を止める。居合に死角があるとすれば、太刀を差している左側。
以蔵は静かに目を閉じた…。この時、何かの違和感が以蔵にはあった。
「ちぇええい!!」
半次郎の気合にも取れる掛け声と同時に、一の太刀が振り下ろされる。同時に以蔵は抜刀しつつ、半次郎の太刀を受け止める。
従来なら受け止めた太刀はへし折られ、勝負を喫する筈が、半次郎の太刀は目標の右下の畳へと達していた。以蔵は受け止めず、自らの太刀で右下へと斬撃を滑らせたのだった。
半次郎の攻撃を受け流した刹那、以蔵は立ち上がりながら右回りに回転しつつ、片足を引き、切先を半次郎の額へと走らせて振り抜く。
半次郎の額からは鮮血が流れる。以蔵は血振いをして納刀し、半次郎に問いかける。
「本気の斬撃ならば、俺の太刀は折れてましたよ」
「いつ、気付いた…?」
「相対した瞬間です。貴方から殺気が消えていました」
半次郎は太刀を畳から抜き、納刀しながら答えた。
「活人剣・岡田以蔵…、そん器量の深さ、見せて頂いた」
額の皮一枚を斬り裂かれ、鮮血が顔を覆う半次郎だが、拭うでもなくその場に膝を着き、深々と頭を下げた。
「西郷どん…何故おいを許さすっのか? おいは西郷どんを斬ろうとした男です」
「おまはんが伊東と会ぅて居った事は耳に入っており申す。そいどん、おいの信じた半次郎を疑う事はせん。一度誰かを疑う事を始めたら、キリがありもはん」
西郷は倒れかけた身体を立て直しながら、静かに笑った。
「それがおまはんの信じた道ならば、おいどんは黙って斬られう覚悟を決めておった」
西郷という男は強かであったが、仲間の気持ちを常に考え、尊重し続ける男だった。一説では、この後に訪れる大戦も、負けると知っておきながら敢えて戦ったとも言われる。
「西郷殿を斬り、桂・高杉さんを斬り、戦を長期化させる。疲弊して行く長州と幕府の戦を操り、一気に薩摩が沈静化させ、朝廷での発言力を増大させる」
以蔵が立ったまま半次郎に言葉を掛ける。
「その通りでごわす。伊東は倒幕派で、この戦を長期化させる事が幕府を討つに必要と…」
「では、影で新撰組を操ろうとしている事はご存知では無い…と?」
「新撰組を!?」
「恐らく、奴は幕府も長州も、薩摩すらも滅ぼすつもりです」
「全て…おいどんは、奴の道具として西郷どんを…。全て奴の策略…」
沈黙の中、半次郎は頭を垂れ、静かに脇差を腰から抜き、畳に置いた。
「西郷どん、介錯を…」
切腹の覚悟だった。しかし、その場に居た佐那が口を出す。
「元よりそのおつもりだったのでしょう? 夫との斬り合いで殺気を放てなかった訳は、斬られる事を望んでいた。そして、西郷殿を斬る事も始めから出来なかった」
佐那の言葉に以蔵は笑った。
「流石鬼小町。半次郎殿、貴方は俺が来るのを待っていた…。一度は誘いに乗り、西郷殿を斬ると決めた以上、裏切った事に変わりが無い。障子の外で見せた殺気は、己自身に対する殺気ですね?」
「鬼となったのは、夫の生き様故です」
佐那はぶぅっと膨れて以蔵を睨む。
「おいどんは裏切られたとは感じておりもはん」
西郷は半次郎の脇差を取り、豪快に笑った。
「すっぱい(全て)を含め、おいの仲間の志。薩摩を思っての事。罪などなか」
「しかし、岡田さぁがここに来た以上、謀略は止まる事はなか…。先に長州に行っておれば…」
「いえ、これは俺の勝負です。負けは許されませんが、許されないのであれば長州に向かうのは、本物の修羅です」
「本物の…? 一体誰が?」
西郷が以蔵に問う。
「半次郎殿、西郷殿。あなた方はこの先の歴史を見届ける義務があります。仕えると決めた西郷殿を裏切れなかった半次郎殿。その心中を察し、懐に包み込んだ西郷殿…。全ては刻の意思による物」
「刻の意思?」
「恐らく、その意思があるならば…桂小五郎の護衛に向かう修羅の名は、沖田総司」
「新選組が長州を守ると言うか!?」
「既に刻は動き出しています。この流れを刻が止められるかどうか。切腹ならば、見届けた後にして下さい」
「あん沖田が長州を救ういうのが本当ならば、見物たい」
西郷が愉快そうに笑う。
「そいどん…おいの気持ちが収まらん…」
「それならば…今後、西郷殿の命を死守して下さい。何があっても、命に賭けて」
「暗殺を目論んだおいどんに、命を守れと申すか!?」
「暗殺なんてありましたか?」
「さぁ…おいどんは覚えが…」
「私も、主人の喧嘩しか見た記憶がございません」
三人の妙な掛け合いに、半次郎は呆れていた。
中村半次郎は本来、西郷に忠実だった。それを裏切りという思想に持って行かれたのは、『薩摩の為』という大義と、時間を掛けた伊東の説得・カリスマ性だった。中村半次郎もまた知性があり、伊東の知性と引き合う所があったのかも知れない。しかし、裏切りという行為に堪えかね、暗殺が実行に移せずにいた時、以蔵の出現で自らを戒めようとしていたのだった。
「伊東は、こうなる事も見越しての暗殺計画でしょうね…」
「…ならば、何故長州に行かん!?」
「言ったでしょう? 賭けです。この時代を生きる侍の意思は、歴史を作る…そう信じたいのです」
「歴史…?」
西郷と半次郎は、その言葉の意味を理解できず、不思議そうに以蔵を見ていた。
しかし…伊東の真の策略は、この暗殺計画すら布石であり、未だ表に出ていない事は誰も気付かないまま進んでいた…。




