全ての開戦
以蔵達が江戸を出立した頃、長州藩の高杉晋作は伊藤俊輔を連れ長崎に居た。
「今更ですが…良かったんですか?せめて桂先生に一言…」
「随分気が小さい事を言うじゃないか。藩の許可を取っていれば、いつになるか分からないぞ?」
「しかし三万六千両だなんて、独断で使える額では…」
「藩だってこんな大金、蓄えてたって勝てやしないって事くらい分かってるさ」
長崎にあるグラバー商会との単独交渉で、高杉は藩にも内緒で軍艦を購入していた。
「高杉先生はいつも公私金の区別が付かないんですから…」
「俺が腹を斬れば収まるなら、いつだって斬ってやるさ。きっとこの事は後で藩の…いや、国の為に必要だったって分かるさ」
高杉はそう言いながら笑った。彼は金銭感覚という物をあまり持ち合わせてはいない。必要だと直感すれば、それが例え公金であっても容赦なく遣い込んだ。無論、一介の藩士がそのような事をできる訳が無く、高杉自身が実力者であったという事もあるが、影では桂も事後処理に走り回っていた。そんな桂の姿を伊藤も知っており、こうして高杉に同行する度に不憫に思える。
「坂本が軍艦を率いて戦うんだ。俺達が先駆けにならなくてどうするよ? 助っ人は有難いが、人任せにするなんか御免だ。派手に行こうじゃないか」
坂の上にあるグラバーの屋敷に居た二人は、眼下の長崎の街並みを見張らせる中庭に居た。二人の表情は対照的で、高杉は悪戯坊主がワクワクしている様に笑顔を作り、伊藤はそんな高杉の暴走をヒヤヒヤしながら眺めていた。
5月下旬。長崎で購入した軍艦、当時の名称を『ヲテントサマ丸』とし、長州へ報告。当然の事ながら藩主共々ド肝を抜かれた。当時の米価換算で現代の金額にすると14億円という金額を勝手に遣い込まれたのだから、その衝撃は計り知れない。桂は何とか上層部の了承を取り、事後承諾という形ではあるが認めさせる。
翌月上旬。幕府は長州瀬戸内に浮かぶ周防大島を武力で制圧した。遂に幕長戦争の始まりである。
かつて勝海舟が提言した、幕府の海軍が攻め込み、地上を制圧したのだ。幸運にも高杉の読みが当たり、この『ヲテントサマ丸』の利用価値が出た。
高杉はこの占領された周防大島奪還を幕長戦争の要とした。
ここを奪還し、幕府軍の勢いを打ち消した上で、ここを拠点に各藩との戦闘へと入る算段を立てる。そしてその作戦は深夜に決行された。
まず高杉は『ヲテントサマ丸』に乗船し、長州藩籍の軍艦を引き連れて瀬戸に向かう。そして灯りを全て消した状態での艦隊は、周防大島沖に停泊する幕府海軍船を奇襲。暗闇から放たれる大筒の爆音と、着弾した轟音・水飛沫により、幕府軍艦の水夫達は大混乱を起こし、恐怖の中で逃げ惑う。統率の執れていない軍艦はただの的と化し、長州海軍はこれを撃破。近隣海域の戦況を一気に手中に収める。
海上の轟音と爆発音に混乱したのは、幕府地上部隊も同様であり、軍艦襲撃と同時に、林半七率いる『第二奇兵隊』を上陸させ、地上部隊をも同時に攻めた。海上での轟音に動揺した幕軍地上部隊も、『第二奇兵隊』の襲撃で大混乱に陥る。
幕府海軍が壊滅状態になると、今度は『第二奇兵隊』と連携を取りつつ、海上からの援護を行った。周防大島占拠に沸いていた幕軍はこの奇襲に慌て、まともな反撃が出来ずに壊滅。
高杉率いる陸・海軍は圧倒的な短期での戦果を上げ、周防大島奪還を成功させた。
そしてその直後、奇兵隊本隊と、福原和勝率いる『報国隊』を召集し、小倉方面への襲撃を計画していた。そこに、薩摩から『亀山社中』を引きつれて駆け付けた坂本龍馬が加わる。
いよいよ幕長戦争が始まり、幕末の秒針が速度を上げる。
…が、龍馬と時を同じくしてその秒針を止め、暴走させるべく一人の男が周防大島に上陸していた。
以蔵はまだ日本海に居る…




