寺田屋遭難(1)
薩長の盟約が行われた翌日、龍馬は伏見にある寺田屋に戻って来た。
そこには既に長州藩士の三吉慎蔵が居た。
「いや、待たせてしもうたかの…」
龍馬は二階に上がり、三吉ともう一人の男に挨拶をした。
「龍さん、遂に盟約が成りましたね…ひとまず、ご苦労さまでした」
三吉は二日間、京の町を歩き回りこの男を捕まえていた。長州藩士という事もあり、京の町を徘徊するのは極めて危険であり、三吉自身も気が気では無い状態での捜索であったが、龍馬の頼みという事もあり、何とかこの男を見付ける事に成功したのだった。
「ちゃ、ちゃ、ちゃ…薫殿、この盟約の突破口はおんしの発案があってこそじゃ。あの妙案が無いと、もっと難航しちょったがよ」
「口で言うのは簡単ですよ。どんな案でも、それを実行し、成し遂げるのは困難を極めます」
薫は素直に龍馬の偉業を称えた。その言葉に龍馬も照れを隠せず、三吉もウンウンと頷く。
「いかんぜよ、そんなに褒められると何もできん様になってしまうがよ」
龍馬はボリボリと頭を掻きむしりながら、火鉢の前に腰を下ろす。
「三吉、すまんがお登世(女将)さんに酒と肴を頼んでくれんかいの…今日は三人で祝杯でもあげるぜよ」
「はい、分かりました。今すぐ」
三吉はにこやかに階段を降りて行った。この男、心底龍馬を尊敬しているらしく、よく身の回りの世話をしている。
一方…寺田屋周辺。怪しい影が数人、寺田屋を見守っている。
「今、男が一人入って行った。恐らく中には二人の薩摩藩士が居る筈であります」
「二人か…示現流を相手に、この人数では心許ない。伏見奉行所に戻り、応援を連れて来るぞ」
この寺田屋は薩摩藩が龍馬に隠れている様にと用立てた宿。それを新撰組見廻りの者が、不審な動きありとの調査をしていたのだった。そして、将軍警護一連の役から外されていた薫は、全く知る事が出来なかった。
龍馬達は日付が変わるまで酒を酌み交わし、今後の展望についても大いに語っていた。無論、そこには薫の姿もある。この日は冷え込み、酒があまり飲めない薫は、首に厚手の布を巻いて寒さから身を守っていた。
そして丑の刻…宴も終わり、三人はそのまま寝てしまおうかとしていた。薫は新撰組に外泊届も出しており、寝泊まりする事に支障は無い。そのまま布団を敷き、雑魚寝の準備を終えた。
同時刻の一階では、お登世が宴の片付けをしていた。
「お願いできますか」
不意に木戸が叩かれ、外から男の声がする。夜中に尋ねて来るとは不審だと思いながらも、木戸を軽く開けた瞬間、外の男達はお登世の口を塞ぎ、外に連れ出した。
「中に薩摩の侍が居るだろう…何人だ?」
刀を突き立てられたお登世は、指で3と出した。
「三人だと?報告が違うではないか…」
それを見た男達は酷く動揺した。どうやら実践には慣れていない連中の様だ。
その外の様子が普段と違う事に気付いたのは、風呂に入っていた楢崎龍だった。小窓から外の様子を見ようと覗いた時、偶然にも外の侍が手にしていた槍の先が、中に伸びて来る…。
「危ない」
つい口に出し、槍を弾いてしまうお龍。
「誰だ! 静かに出て来い!」
外の男はお龍に指示するが、その槍を掴み、
「女が風呂に入っておる所に、槍を突き立てるとは侍のする事では無い! 誰だ!」
二階にも響く程の大声で叫ぶお龍。
「うるさい!静かにせんか!殺すぞ!」
「お前さんに殺される様な女では無い!」
気の強い女である。お龍はそう叫び、直ぐに浴衣を羽織って外に飛び出し二階に駆け上がる。
お龍の声に気付いた三人は、逃げる間が無いと悟り臨戦態勢を取った。
龍馬は既に袴を脱いでおり、取りに行く間が無いと判断し、刀をそのまま腰に刺して銃を手に取った。
薫は立場上、顔が見られないように灯りを消し、更に首に巻いていた布で口と鼻を覆い隠し、柄に手を置き抜刀準備に入る。
三吉は壁に掛けていた槍を手に取り、後ろに下がって警戒をする…。
階段を駆け上がる音が聞こえ、三人は構えを取る。障子が開き発した言葉は…
「御用心して下さい。敵が梯子を使いこちらに攻めて参ります! 恐らく身形から伏見奉行所の者。薩摩の侍を探しています!」
浴衣一枚を身に絡めただけのお龍だった。
「お龍、なんちゅう恰好じゃ。分かった。おまんは直ぐに薩摩藩邸に出向き、事を知らせるがじゃ。気を付けて行くがぞ」
龍馬はお龍に指示し、三人は梯子のある隣の部屋に身体を向けた。お龍が階段を警戒しながら降りていた頃、龍馬達の居た部屋の隣で、ミシミシと音がし出した。
『遂に来たか…』
薫はゆっくりと前に出て、居合腰に構えながら、龍馬達を見る。そんな薫を見て、龍馬は再び銃を構え、コクっと頷く。次の瞬間、薫の刀は一瞬の煌きを発し、障子を横に薙ぎ斬る…。
そこには、伏見奉行所の縛吏十人が居た。
縛吏達は突然斬り倒された障子に驚き、身体を動かす事が出来ない。更に障子を斬り倒した薫は既に納刀しており、何が起きたか理解ができていないようだった。
その様子を見た龍馬が機転を利かせ、
「薩摩藩士に対し、いかなる理由があって無礼を働くか!」
と怒鳴った。この縛吏達は龍馬が目当てではなく、不逞な薩摩藩士を捕縛・暗殺する為の男だという事を、先だってお龍に聞かされていた上での判断だった。
新撰組に属していても、幕府側から龍馬を守る事が出来ない刻の正確さに、薫は恐ろしさを感じていた。そんな薫は、無意識に縛吏に言葉を投げかけた。
「死ぬのは拙者等か、その方達か…。闇に生きていた岡田以蔵を、目覚めさせる度胸があるのであれば、参られるが良い」
『岡田以蔵』の名を縛吏が耳にした瞬間、全てが凍り付く。吉田東洋襲撃以来、その名は影を潜めていた。時勢が変わる瞬間・瞬間でその名が出ており、いずれも事は大きく動き出していた事で、この場で『岡田以蔵』が出た事は縛吏にとっては恐怖でしか無かった。しかし、この言葉で後悔したのは薫本人。幕府側に『以蔵』復活を知られた以上、新撰組から何らかの処分が出る筈である。
そしてこの先、『岡田以蔵』に関わる刻の歪が生まれ、修復と歪の繰り返しが始まって行くのだった。




