長州討伐命令
慶応元年7月。薫と会い、孤独感を払拭できた龍馬は、薩長盟約と幕長戦争への準備に邁進する。
この月の二十七日。長州の伊藤俊輔(後の博文)等数名が長崎に到着。武器の受け取りの為にグラバーとの面会を行い、八月に全ての武器を購入する事ができた。
そしてこの翌月、幕長戦争は現実へと歩み始める。
事の発端は九月十六日。英・仏・米・蘭四国の軍艦9隻が兵庫沖に出現し、兵庫開港を迫る。時を同じくして、幕府からの武力脅迫と将軍辞職も辞さないとの強い姿勢で、朝廷に長討許可の申請も出る。
もはや朝廷に悩む時間など残されていなかった。兵庫開港だけは断固拒否した変わりに、遂に長州討伐を許可し、勅命となされた。そしてそれに反発するように、薩摩の大久保利通は、長州藩に「非義勅命は勅命にあらず」という、勅命拒否の意思を告げた。
その書簡を元に薩摩からの兵糧米斡旋を快諾した長州は、いよいよ同盟へと動き出し、更に亀山社中は近藤長次郎の交渉で、グラバーからユニオン汽船を購入する事に成功。夏までに戦の準備をする、という算段からは多少のズレが生じてしまったが、整って来ていた。
その翌月には、幕軍に対抗する兵力が必要と判断した薩摩藩は、西郷を筆頭に小松帯刀等が兵を引き連れ上京。既に戦闘態勢へと向かっていた。
そして慶応元年十一月。遂に幕府は諸藩に、長州討伐の命令を出した。
幕府はまず、参勤交代や五卿の身柄受け渡しなどを長州に迫った。しかし、その回答を先延ばしにして行き、その間に迎撃態勢を立てて行く。
その頃幕軍は、長州の包囲網を確立させる算段を行い、肥後・松山・岩国・浜田・薩摩の五藩が、それぞれの方面より攻める算段を立てていたが、薩摩の出兵拒否に伴い、四方からの包囲網へと転換せざるを得なくなった。
時の将軍、十四代家茂は大坂より指揮をし、この戦に幕府の威厳を保つべく、大掛かりな制圧戦と予想していた。しかし、暗躍する龍馬と中岡が、薩摩と長州を結び付け、更に奇襲作戦を基本に考え抜かれ、準備されていた戦闘は、長州に有利に働く事となる。
一方の新撰組は、将軍の大坂進軍に併せて警護に就き、その周辺の警備も兼ね、大坂新撰組と京の新撰組とで身辺を固めた。又、五月には将軍が入京する事もあり、京の新撰組はその警護に追われていた。京の新撰組が動くとなっては、当然薫も一翼を担う筈であったが、監査という役柄から直接警護は任されず、周辺情報の調査に当たった。
同年十月~十一月にかけ、幕府は長州に対する命令を先延ばしにしている事に憤りを感じており、新撰組局長、伊東の策略で近藤勇を中心に数名が長州への入藩を試みるが失敗。十二月に一旦帰郷し、報告の為に会津藩へと向かう。
この頃になると、京や大坂での長州藩士の捕縛等が増え、戦への危険度が上がって行く。
不思議な事に、この頃の「浅野薫」の行動については、後の歴史書には記載が無い…。元々の監査役は表に出る役職では無く目立った事はしないのだが、これは局長・副長・参謀の伊東による細工があり、元々『岡田以蔵』という顔を持つ男が警備に関わり、何かを引き起こすかも知れないという危機感を払拭するための物だった。
その為に薫は警護に就く事無く、普段通りの職務を行っていた。この事が後の薫の運命を左右する事になるのだが、今はまだ、京の町の見廻りを日々行っているだけであった。
慶応元年は幕軍の宣戦布告、情報戦が行われ、来るべき幕長戦争に備える動きのまま暮れて行った。




