西郷の危機と長州の危機
時は少し遡り、慶応元年5月下旬の頃。京の町を巡回していた浅野薫は気を張っていた。
それと言うのも、最近幕府幹部が京・大坂に集まり、朝廷に対して武力を背景に長討を迫っていたからだ。朝廷の返事次第では、長州征伐が始まり、京から大坂までに至る幹部が幕軍を召集、更に西郷が説き伏せられていない諸藩が幕軍に参戦し、時を速めて戦が起こる可能性があったのだ。
そして薫は薩摩藩邸に赴き。大久保利通らと会談。その情勢を薩摩の西郷に知らせたのだった。
西郷が会談の場に姿を現さなかった理由は、ここにあった。仮に同盟が成立しても、この武力での強迫に朝廷が屈してしまえば、準備が整う前に幕軍が長州に戦を仕掛けてしまう。一刻を争うものだったのだ…が。
「西郷殿?」
京の町で4人の供を連れて薩摩藩邸に入ろうとしている西郷を見付けた薫は驚いた。六月十日…この時期に西郷が京に居ると言う事は、会談が先に伸びたか行かなかったか…。
「これは浅野どん。お久しぶりにごわすな」
薫は慌てて西郷の袖を引き、藩邸の中に飛び込んだ。新撰組監査役が西郷と親しくしているとなると、内部で問題に成り兼ねない。
「西郷殿、桂さんとの同盟は如何なされた?」
「それどころではありもはん。幕軍が…」
「事情は分かっています。分かっていますが、龍さんや桂さん達には事情を説明しているのでしょうね?」
「………」
薫の問い掛けに、西郷は口を塞ぎ俯いてしまった。
「まさか西郷殿、成り行きとは言え、説明をなされずに京に赴きなされたか!?」
薫は目眩がした。最もこの目眩は、例の刻を超える際に出る物ではなく、個人的絶望感からだった。
「何て事を…。事情を知らぬ長州は、薩摩に裏切られたと判断してもおかしくありませんよ!」
西郷の袖を掴んで訴える薫と、それを何とも言えぬ複雑な表情で見る西郷。
「何故…何故長州にそげんまで気を遣わんと…? 薩摩藩は朝廷を導く大役が在り申す。長州一藩だけの問題に固執する訳にはいかんですたい」
「それは薩摩の自己満足です! 今、確かに朝廷には薩摩藩の、西郷殿の御知恵も必要でしょう。しかし、長州との盟約もこの国の先にとっては不可欠なのです!」
それは西郷も分かっていた。だからこそ勅命として長討など行ってはならず、朝廷を思い止まらせたのだ。
「中岡殿か龍さん…坂本殿に、一言伝えれば済む話ではありませんか!」
「朝廷を抑える程の事を、他者に洩らせと申すか?」
「あんた達は、いつまで個々で動くつもりだ!」
薫は薩摩藩邸内で、その重鎮である西郷を殴り付けた。当然、共の三人はその狼藉ぶりを目の当たりにし、抜刀する。薫の声を聞き付けた藩邸内の者も駆け付ける。
「盟約・協力を謳っておきながら、その実は信頼もせずただ利用だけしようとする! その傲慢さ、自己の利益だけを考える様はこの時代には必要無い、という事にまだ気付かないのか!」
立派な体躯であった西郷は、薫に殴られた程度では弾ける物の、倒れる事など無い。そしてその身辺警護の者達は薩摩示現流という剣術の達人達。
瞬時に薩摩藩邸全体を敵に回した薫は、眼光を鋭くし、上段に構える侍全員を睨みつける。
「刀一本で何ができるか! 傲慢さを捨てられぬ者は、参られぃ!」
そう叫ぶと、薫は居合構えを取り、ジリジリと間合いを計り始めた。
「何をしゆうがか!? おまんら、やめや!」
藩邸の門から、土佐弁が響く。下関から京の舞鶴港を経て、藩邸へと駆け付けた龍馬の姿があった。
「西郷殿が下関に来んおもうちょったら…京で薫殿と斬り合いかや。西郷殿はもう既に、ワシ等の敵となったっちゅう事かいの?」
龍馬が入った後も、しばらく全員が戦闘態勢のまま動かない。最早、誰にも止められないのか…と、龍馬が諦めかけた時、西郷は口を開いた。
「今、この時…おいどんが動く事で、朝廷を止めなにゃ、長州に幕軍が向かおいもす…そいどん、そん事を中岡殿に言わなかったのはおいの考え違いで申した」
「事情がよう分からんちゃ…薫殿、ワシにも分かるよう、教えてくれんかいの?」
薫はゆっくりと抜刀態勢を解き、周りを見渡した。その薫の表情に敵意は無く、その視線に入った薩摩藩士達からも、潮が引く様に敵意が消えて行った。
西郷が自ら『考え違い』と認めた事で、双方の敵意が消えたのだった。
「西郷殿、ちっくと中で説明してくれんかの…長州の桂殿に、納得の行く説明を貰わんと、ワシも帰れんき」
龍馬はそう言いながら、藩邸の奥へと西郷と共に入って行った。薫にとって、その場には既に自分が入るべきでは無いと判断し、薩摩藩邸から出ようとした。
「浅野殿…新撰組一番隊組長、沖田総司と互角に渡ったと言うのは本当ですか?」
背後から声を掛けた男は、細い目で凛々しい男だった。
「おいは中村半次郎利秋と申す。こん度の長州との同盟を願っておる一人で居り申す」
薫はどこかで聞いたような名前だと、記憶を探りながら一礼した。
「新撰組内部にも、同盟を望む御仁が居られるとは意外で申したが…坂本どんとも親しい様子。以後、どこかでお会い出来た時には、一献ご一緒致したくおますな」
その話し方は物腰柔らかく、恐らく剣の腕は立つと思われるが、ただの剣豪では無いと判断できる。
「そいでは…おいは西郷先生の警護があり申す故、失礼致す」
中村は丁寧に一礼をし、そのまま屋敷へと入って行った。
薫はその背中を見送り、自らも藩邸を後にする。
西郷はこの時、龍馬に全ての事情を話し、大久保利通に『幕府の長討に協力する事なかれ』という書簡を用意し、更なる朝廷工作へと入った。と、同時に亀山社中への出資も増し、同盟への準備とその誠意を長州に現したのだった。
その誠意と、西郷の謝罪とを含め、後に桂達を説得。再度会見を望む事となるが、事情は切迫しており期日は未定。今の薩摩は、長州への出兵を取り止めるよう説得する事を最優先としなければ、長州への武器が届くより前に、開戦となってしまう可能性がある事から、朝廷工作を優先させ、武器の手配や同盟の裏は亀山社中に一任する形となった。
激動の幕末は、まだ始まったばかりだった。




