鼠の謀略
「労咳ではない?」
薫が医者に聞き直す。沖田が運び込まれた旅籠の軒先で、山南を含む三人が立ち話をしている。無論、沖田の症状の事。
「恐らく吐血は腹からの物でしょう。胸からの物ではありません…が、暫く安静にしておく必要があります。無理な旅はやめ、お戻りになられた方が良いでしょう」
つまり結核では無く、胃からの出血だろう。薫との衝撃的な出会いから大坂での常識外れ(当時としては)の行動、更には山南の脱走と、それを斬ると言った薫へのストレスで胃炎にでもなったようだ。嘔吐するように吐血したのは、胃からの出血だったのだ。
医者が帰った後も、二人は入り口で立ち止まり、話し込んでいた。
「はぁ…とにかく、安静にする必要があるのですね」
薫はそう言うと、山南を見つめた。
「大丈夫。私は逃げないよ。こうして君達を待ってたんだから…」
「病が伝染る事は無さそうなので、会ってあげてくれますよね?」
「私が心の病を深くしてしまったのなら、会うべきかも知れませんが…君達は私を斬りに、ここまで追い掛けて来たんでしょう?」
山南は小さく微笑みながら、薫の顔を優しく見つめた。
「それを分かっていながら、何故ここで待たれていたのですか? 我々がサンナンさんを斬らない、と思っているのですか?」
「岡田以蔵に対して、そのような甘い気持ちを持てませんよ。『活人剣』とは言え、その裏では数人と斬り合い生き延びている。その腕前と斬る『覚悟』は、間違いなく持っている武士ですからね」
山南は入り口から奥の暗闇を見つめながら、表情を柔らかく保っている。
「しかし、君は策士でもある。大坂で捕縛した勤王党は一名だったと聞くが、実際はどうだったんだい? もし、意図的に彼らを解放していたとすれば、君が彼らをそのままにする筈は無いだろう?」
「サンナンさん…。何を言ってらっしゃるのか分かり兼ねますが…」
薫は山南の視線と同じく、奥の暗闇を見つめている。そんな薫に、山南は視線を移して言葉を続けた。
「もし君が、意図的に逃走を手伝ったのだとすれば、何かそれ以外に目的があり、また一騒動起きる為の布石ではないか…。そう思えてならない」
「全て仮説の上で成り立つ推測ですよ」
「そうだろうか? 勤王党が一人で隠れていた事がおかしいと思わないか? 君と総司の二人が揃っていて、他の勤王党を逃がす、なんて事は有り得ないと感じるが…」
「勤王党は一人。その一人を沖田さんが捕縛したまでの話しです」
薫はその『仮説』を否定した。が、山南は確信を持って話しを続ける。
「逃げた勤王党は、どこに行ったのか…。大坂という土地柄、交易は盛んで、各藩に船での逃走は可能。そして土佐と密な関係があるとすれば、坂本という土佐藩士を匿っている薩摩藩。となると、薩摩として匿うだけの利益が生じる話しでなければ、流石に土佐勤王党を匿うという事はしないだろう」
薫はその話しに違和感を覚えた。山南はそこまで深読みする男では無い。
「伊東甲子太郎ですか…」
薫は山南の顔を見て、その名を口に出した。
「ああ、私にその推測を話したのは彼だよ。そして、薫さんが伊東参謀の名を出せば、恐らく裏で何かしらの動きをした可能性を持つ程の策士、だとも言っていた」
薫は腹の底に冷たい物を感じ、表情が強張った。
「サンナンさん、まさかその話しを聞きだし、真相を確かめる為に脱走を…?」
「あぁ、それが真実であれば、人を斬らずに尊王活動ができる、と思ってね。本来は総司とも話しがしたかったんだが…」
薫はその表情を崩さずに、山南の肩を掴みながら、声を押し殺して問う。
「脱走計画も、伊東参謀が?」
「ああ、伊東参謀も尊王派でね…。最も、思想は同じでも過激な事を好む性質だから賛同はし兼ねたが…」
薫は、山南共々伊東に嵌められたのだと言う事に気付いた。
「あの野郎…」
薫の表情は止める事無く怒りに支配されて行く。それに驚いた山南は、
「どうしたんだ? 君がそんな表情を出すなんて…」
「我々は嵌められたんですよ、伊東に。沖田さんは何とかサンナンさんを生かそうとしている。もし生かして過ごす事ができるなら、薩摩に逃がす手しか無い。そうなれば、土佐勤王党を薩摩に匿って貰ってる事が裏付けされる。それを口実に、私や沖田さんが死罪となり、新撰組内部の実権がより自分の近くに寄る。いや…土方さんの責任も問うつもりかも知れません」
「馬鹿な…伊東参謀は、新撰組の実権を握るつもりなのか!?」
山南も表情を強張らせる。
「恐らく。それも至極合理的に…。近藤局長は伊東参謀を買ってる。その局長を操る事ができれば、新撰組は尊王一派として過激集団に成り下がってしまう。仮にサンナンさんを斬った所で、屯所移転問題に異を唱える邪魔者が居なくなる」
「東本願寺の…尊王攘夷派を仲間に引き込むつもりだとでも?」
「ええ…それには土方さんの存在が邪魔です。恐らく今回の脱走劇の裏で、何か他に策を立てているでしょう…」
「長州と繋がりを持つ西本願寺を味方に付ければ…芹沢鴨を討った如く、土方副長を…」
「長州と繋がっていたのか…ならば未然に謀略を防げるかも知れませんね。しかし、完全にそれを防ぐには…」
薫は山南の肩から手を離し、再び闇に視線を落とすが、その焦点は合っていない。
「覚悟はできてるよ。私の命が必要であれば…」
「ネズミ(甲子)に一泡吹かせに行きませんか?」
山南の言葉を薫が遮る。
「どうです? ネズミにひと噛みしに但馬に行きませんか?」
「但馬に…? 何があるんだ?」
「馴染みの『猫』が居ますよ」
山南はしばらく考え込み、チラッと薫を見る。
「この命、最後に華々しく散らしてみるか」
山南は死を覚悟し、そしてその命を動乱必死の新撰組・京を救う為に捧げる決意をした。




