落とす命
沖田と薫は江戸に向かっていた。京より出立し、近江の国に入り江戸へと向かう道程。
その道中、沖田は薫に何度も問いかけた。
「何か策があるのであれば、教えて下さい」
しかし、何を聞いても薫は応える事無く、無言で二日間を過ごした。
その間、薫は何度かある感覚を体に感じていた。そして、琵琶湖を望む湖畔で小休止をしている今も。
『また来た…あの時と同じ風景…』
天地が逆転する感覚。そう、薫がまだ木下健一だった頃、江戸に「刻」を超えた瞬間の風景が見えていた。
『完全に逆転はしていないが、まさかこの先に歴史を狂わせてしまう事をしようとしているのか』
当然、山南を生き永らえさせる事こそが、歴史を狂わす事に繋がるのではないか…という疑念が生じていた。しかし、伊井直弼・吉田東洋と、死ぬべき人が死ななかった事での「刻」の狂いは生じなかった事を考えると、山南の死と生が、それ程この後に影響するのかと考えると、自分の取るべき行動が分からなかった。
親しくしていた人が死ぬ事により、歴史が正しく動く。その非情な流れ…例え山南を生かそうとすると、恐らく自分が死に、山南も死ぬ。それでも抗う必要があるのか?
その時、脳裏には龍馬が浮かんだ。もちろん彼とて例外ではなく、死ぬだろう。それを阻止すれば間違いなく明治以降の歴史は大きく変わる。それを「刻」が許すはずもなく、自らもこの時代での命を終えてしまうだろう。その時、それでも自分は龍馬を守って死ぬのか? 龍馬が死ぬと分かっていながら、命を投げ出せるのか?
何よりも今、無理と分かっていても沖田が兄と慕う山南を救う事に意味があるのか…。
歴史が求める命、求めていない命があり、そこには歴然とした命の重みが圧し掛かっている。
「刻は命の価値を計っているのか…」
「どうしたんです、やっと口を開いたと思えば薫さんらしくない事を…」
考え込む余り、つい口を開き声を出してしまった。
「命の重みなど、誰も同じでしょう。幾人も切った私が言うのも可笑しな話しかも知れませんが、その命を奪ったという事を、自分の命に刻み込んで生きて行くのが侍と言う物です」
「消しても良い命の火、消してはいけない命の火…そのような物がこの世にあると思いますか?」
「サンナンさんの事ですか…?」
沖田は隣に座る薫を睨む。
「サンナンさんだけじゃありませんよ。沖田さんが斬った人、私が斬った人…そして私たちも含めて」
「消して良い命なんて、この世にはありません。だからこそ、信念でぶつかった互いの命を削り合った後、その魂を背負って生きて行くんです。それが武士道です」
沖田は険しい表情を崩さず、琵琶湖面を睨む。
しばらく二人で湖面を睨む。時間が静かに流れ、まだまだ肌寒い風が身体を叩く。
「沖田さん、私はサンナンさんと斬り合います」
その言葉に沖田は驚きと怒りを露わにした。
「薫さん! いくら薫さんでも、許しませんよ、そんな事は! サンナンさんを死なせない為に貴方に同行をお願いしたんだ!」
沖田は立ち上がり、怒りで手が震える…。それを目に入れず、湖面を眺めたまま、薫は静かに言う。
「私を止めるなら、私は沖田さんを斬ります。斬ってでもサンナンさんの魂を受け継いでみせます」
「貴方と言う人は…」
沖田は怒りで体が震える。顔面が紅潮し、興奮状態が高まる…その後、ゆっくりと体が崩れ落ちる。
「沖田さん…?」
膝を付き、吐血する沖田。嘔吐にも似た咳を激しく繰り返し、その度に血を吐く。
『結核…!まさかこのタイミングで!?』
薫は沖田の身体を抱え、近くの旅籠に担ぎこみ、医者の手配をした。
程無く医者が訪れ、診察が続く。この時代に結核の薬は無く、感染の恐れがある事から、薫は部屋を出て、軒先で待つ。
『沖田さんがこの時期に死ねば、歴史はどうなるんだ? その事を予見して、あの光景が見えたのか? いや、その事に俺は関わって無い。ならば沖田さんが死ぬ事はあり得ない? …今死んでも歴史に然程影響が無い場合はどうなる? …友が死ぬのか!?』
薫の頭は、刻の旅人として、沖田の友として回転し、混乱していた。
「噂って怖いね。沖田総司が吐血して運び込まれたって、この辺りに広まってるよ」
くたびれた着物を羽織った男が薫に近付き、声を掛ける。表情は曇り、そして疲れと諦め、不安が浮かび上がっていた。
「サンナンさん…」
「思ったより遅かったね。もう少し早く追いつかれると思ったけど」
そこに立っていたのは、脱走した山南敬助その人だった。
薫は涙を流し、その場に蹲った…。




