山と甲子
除夜の鐘の音が、凛とした深夜の空気を揺らしている。空は曇っており、星空は生憎目に入らないが、清々しい程の空気である。
新撰組屯所にある薫の部屋には、沖田と山南が居た。
「年も越したね。何を拾い、何を捨てる年になるかな…」
山南が思い深そうに呟く。その右手には一枚の紙が握られている。
「サンナンさん、我々が抱く武士道とは…」
「分かってる、流れには勝てないよ。この矛盾と戦っていても答えにはたどり着けない事は分かってるんだよ」
沖田と山南はその紙に書かれている内容についての論議をしていた。
私闘の禁止、脱退の禁止、金策の禁止、武士道に反する行為の禁止、訴訟扱いの禁止…いわゆる局中法度という、新撰組内部の決めごとである。
「武士道って、何だと思う?」
山南は薫に尋ねる。
「人の価値観により、それは変わりませんか? 主に着き従う事でもあり、自らの心に背かない事でもあり、闘いに至っては臆さない事、更には戦わない事でもある…人の生きる道の、それぞれの美学ではないでしょうか?」
「そう、そうなんだよ。人は皆、それぞれに信ずる道がある。その道に従い生き抜く事こそ、武士道だと私は思う」
山南は薫の顔を緩く見つめながら続けた。
「そのそれぞれに違う価値観を、誰かが無理に定めるのは武士道に背くとは思わないかい? 違う価値観の者を包み込む事も、武士道ではないのかい?」
沖田は、この山南の言葉と、かつて聞いた龍馬の言葉を重ねて聞いていた。もちろん薫も同じく重ねていた。
「西本願寺に屯所を移す、という話しは聞いてるね?」
「ええ、隊士が増え、二か所に分けている屯所をまとめて広い場所に移すと…」
「表向きはそう。でも真実は裏にある」
沖田と薫は目を細めた。
「勤王派一掃、ですか」
沖田が山南に問うと、山南は頷く。
「あそこは勤王派と太い繋がりを持つ。そこに屯所を置く事により、勤王派を焙り出す手筈さ」
「サンナンさん…あなた、何をするつもりですか?」
山南は尊王攘夷派である。新撰組内部には、複数の尊王攘夷派が紛れており、この屯所移転に際して大きな亀裂が生じる事は必至だった。
「この移動で、外部の尊王攘夷派よりも、内部の影響が大きくなるよ。土方副長は内部の裏切り者をも焙り出そうとしている。新撰組は大きくなりすぎた…」
深く、静かな年越しの夜に、三人は動乱の予感を感じ取っていた。
「そろそろ私は寝るよ」
そう言い残して山南は自分の部屋へと戻った。残された沖田と薫は、暫く沈黙を貫いたが、口を開いたのは薫だった。
「沖田さん、知ってますか? 刀は三枚の異なる鋼を張り付けて鍛えてるって」
「今更何ですか、そんな事は知っていますよ」
「西洋の刀は一枚だという事は?」
「一枚? 刃も鎬も一枚の鋼で作るんですか?」
「ええ、だからすぐに折れる。それに反りは無いから切れ味も悪い」
薫は含めた裏の言葉を沖田に伝えようとした。
「…つまり、サンナンさんを守る、そう言いたいんですよね?」
「一人では戦えません。あの人は必要な人です。力を合わせれば、時勢をも切り開ける筈です」
「新撰組に反旗を翻す事はできません」
「沖田さん、戦うんじゃありません。サンナンさんが反旗を翻さないように守るんです。この先、サンナンさんには堪え難い事が待っているでしょう。でも、あの人には私達が居る。一人にはさせない」
沖田は熱くなっている薫を見て、無邪気に笑って見せた。
「全く…龍馬殿といい、サンナンさんといい…今のこの国に、そのような発想を持った男がなぜこうも次から次へと…」
山南を一人にはさせない、その言葉は沖田の心を大きく揺らした。浪士隊結成以前より、兄のように慕っており、山南も弟のように可愛がってくれた。その男を守るという薫の気持ちが有難かった。
薫の部屋を出て、自分の部屋へと戻った山南に、一人の男が訪ねて来た。
「山南総長、よろしいか」
障子を隔てて声をかける男。
「伊東参謀…どうぞ」
山南の声を待たずに障子が開く。そこには入隊後、破格の待遇で新撰組参謀になった伊東甲子太郎が立っていた。
「土方副長と激しく論議したようですね」
「ああ、お耳に入りましたか…屯所移転に関して、少々」
「移転に関しては、私も異論があります。お互い尊王派ですからね…」
そう言いながら障子を閉め、部屋の中に入る伊東。山南は身構える。
「そう硬くならないで下さい。過激な尊王攘夷派と言われていますが、今は新撰組の同士です」
「同士? あなたは内部の軋轢を生じさせるおつもりでは?」
山南はニヤリと笑い、伊東を威嚇する。
「やはり、そう見られてましたか…参りましたね。私はここで同士を募るつもりはありませんし、謀反を起こすつもりもありません」
「その言葉を信じろと? 私も尊王派ですが、新撰組隊士として京の町を守る事こそ使命としています。今は必然的に尊王派を相手にしていますが、必ず泰平が来ると信じています」
「屯所移転の後も…泰平は来ると思いますか? 尊王派との繋がりが強い西本願寺に我らが屯所を構える事で、尊王派は更に過激になると思いませんか?」
「だから反対をしているのです。自ら混乱を招こうとしている副長に…」
「変わったのです、いや…変わらない、と言うべきでしょう。元より彼等は将軍警護の為に浪士隊に入った、佐幕です。我等と交わる事の無い思想です」
「互いに主張し合っているだけでは、交わる筈が無い。伊東参謀、あなたもです」
山南は、伊東が部屋に入ってからずっと威嚇し続けている。それは新撰組を守る為でもあった。しかし伊東は、そんな山南を笑みで返し、言葉を発した。
「我等両者は、水と油。元より交わる事の無い者同士。ですが、油は水を覆い隠す事ができます」
その言葉に、山南は恐怖を感じた。伊東はいずれ、新撰組を我が物にするという野望があると見えたのだ。
「あなたは油になると…? 西本願寺に移転すれば、それも確かに容易になりましょう…」
しかしそれには、多くの血が流れる事も必然である。
山南はこの時に感じた恐怖により、数日後に起こる悲劇へと向かってしまう。




