新撰組の実状
秋も深まりつつある京の都。元治元(1864)年の11月だった。
沖田は一番隊と共に庭での剣術稽古に励んでいた。しかし、その中に薫の姿は見えない。
竹刀を打ち鳴らす乾いた音が響く屋敷内の最深部。薄暗い室内に三人の男が座っている。そこに居るのは、新撰組副長土方歳三、同山南敬助、監察方浅野薫だった。
「伊東大蔵が、今日ここに来るようだが用心しろ」
「遂に来てしまいますか…先月に入隊した頃は、まだ先のように感じていたんですがね…」
「他にも六名を引き連れての上京のようだが、恐らくは過激な思想を持っていると思われる。今後の新撰組の悩みの種になるやも知れんが、近藤局長のはその頭脳を買っておられる。藤堂の推挙ではあるが、藤堂も尊王派故に、馬が合ったんだろう。昔馴染みだったようだ」
「無駄に人斬り稼業が増えるのは避けなきゃいけませんしね…我々は身辺警護と治安維持が目的ですから…」
山南が口にする言葉に、一瞬の戸惑いを見せる土方。
新撰組は本来、尊王攘夷を目的に結成された組織。言うなれば後の勤王の志士達と同じ目的である。しかしその実とは反し、志士の弾圧へと向かいつつある事が、山南にとっては面白くない。しかし、志士達の中には過激な行動を取る連中も多く、それを抑える為に山南は新撰組として居るのだ。それに反し土方は将軍家茂警護の為に浪士隊に志願し、この立場になっている。勤王の志士自体が邪魔な存在と感じているのだ。
こうなってしまった要因は、その成り立ちにある。
先に上げた通り、尊王攘夷を目的としていた集団だが、征夷大将軍徳川家茂警護の為の集団でもあった。その後の行動を決定付けたのは、文久三年八月十八日(1863年9月30日)。中川宮朝彦親王と薩摩藩・会津藩等をはじめとする「公武合体派」が、長州藩を主とする「尊皇攘夷派」を京都における政治の中枢から追放した。
事の発端は、「尊王攘夷派」が攘夷の実行を幕府将軍及び諸大名に命ずる事を孝明天皇に献策し、徳川幕府がこれに従わなければ、長州藩が錦の御旗を関東に進めて徳川政権を一挙に葬る、という内容のの策を企てた事による。しかし、その内容を事前に薩摩藩に察知されてしまい、薩摩藩・会津藩、「尊王攘夷派」の振る舞いを快く思っていなかった孝明天皇や公武合体派の公家は連帯してこの計画を潰し、朝廷における「尊王攘夷派」一掃を画策し、未然に防ぐ事に成功する。
幕府をも攻める事を視野に入れた「尊王攘夷派」を、徳川将軍家警護の目的をも持つ「浪士隊」が引き受ける事になり、京での志士達の弾圧へと繋がったのだった。後に八月十八日の政変と言われるこの事件が切っ掛けとなり、翌年6月5日(1864年7月8日)、治安維持組織として京にあった新撰組が、池田屋に潜伏していた長州・薩摩藩の尊王攘夷派を襲撃する事になった。
この一件以降、新撰組の敵は尊王攘夷の志士が中心となったが、新撰組内部にも尊王攘夷派が存在する、という状況を生み出してしまったのである。
「山南総長、京の警護が我々の責務です」
土方が山南に向かい、少し不安そうに諭す。
「分かっています。土方副長は、伊東が尊王攘夷を隊内で説き、離反する者が出る事を心配されてるのでしょう?」
「思想よりも、警護が我々の…」
「分かってます、分かってますとも」
土方の言葉を、山南は遮る様に言うが、その顔は物寂しそうに笑っていた。新撰組と言う矛盾の中で成り立った組織に所属した両名は、伊東という男の入隊で、亀裂が生じる事に不安を持っていた。
「あの…それで私がなぜ、この席に呼ばれたのでしょう…」
薫は新撰組のそのような暗部に詳しくは無い。何やらモヤモヤとした気持ち中で土方に問いかけた。
「ああ、すまない。実は伊東の行動を監視して貰いたい。もちろん内密に…局長にも…」
「まあ、局長も伊東という男を買っていらっしゃる様子ですので、それは分かりますが…分かりました。不穏な動きが無いか、監視しておきます」
「薫殿の立場上もある。無理はせぬよう」
幕府要人警護であった薫の身を案じての言葉だった。しかし、新撰組の成り立ちを知らない薫にとっては、尊王攘夷派を仲間として受け入れる事自体が不思議であり、後で沖田に聞くまでモヤモヤは続いた。
年も暮れかかる間際に、この新撰組にも大きな波が押し寄せて来るのだが、薫にとっては翌々日に訪れた客人の知らせが大きな波となるのだった。




