夜の訪れ
土方が二股口へと戻った四月二十日未明。
松前から木古内へと退却していた旧幕府軍を、新政府軍が急襲した。最早物量で一気に畳み掛けようとする新政府軍に、昼頃まで必死に耐えるが、額兵隊と遊撃隊の踏み止まりも空しく、この前線は圧されて更に五稜郭方面への撤退を余儀なくされ、泉澤まで後退。旧幕府軍は七十名以上の戦死者を出していた。
撤退後、松前守備隊は本多幸七郎率いる伝習隊など、五稜郭からの援軍を加え、木古内よりも松前寄りの知内に、まだ孤立していた彰義隊など三百名の兵士を救うために再び木古内へ向かう。また、孤立していた知内部隊も諦めずに木古内突入を決め、新政府軍を挟撃する形となる。この仲間を救う為の進軍と、諦めない知内部隊の行動が、木古内奪還へと繋がった。しかし、松前守備隊はすぐさま木古内を放棄し、地形的に有利な矢不来まで後退し、土方二股口守備隊に倣い、砲台と胸壁を構築して布陣した。
四月二十二日、二股口。
新政府軍は二股口への侵攻も再度敢行する。しかし、滝川充太郎率いる伝習士官隊も合流した布陣は堅く、胸壁を利用しての銃撃戦は、旧幕府軍に有利に働く。更に先の斥候が山中で壊滅的な恐怖を味わった事から、準備に時間がかかり挟撃ができない新政府軍。
「岡田…岡田は居るか!?」
土方は銃撃音に打ち消されながらも大声を張り上げると、遥か前方の胸壁に隠れながら苦戦する以蔵が、胸壁を渡り歩きながら銃弾を避け後退して来る。
「どうしました!?」
「奴等、山中からの攻撃が無い! このまま行けると思うか!?」
「無理でしょう! 先の斥候を撃退した事で、準備を始めている筈です!今はそれまでの時間稼ぎと見るのが妥当です!」
以蔵は最後方の胸壁から銃撃を行っているが、一向に当たらない。
「畜生! 銃なんて扱う才能が元々無いのか!」
以蔵は全く的に当たらない事に苛々しながら、砲身を冷やす為に水桶に先端を突っ込む。
僅かに『ジュッ』という蒸発音と共に、白い湯気が見えるが、そのまま引き抜いてまた撃つ。
山間部にある二股口は、徐々に影に隠れて行き、夜の訪れが匂い出す。
「敵の銃撃も減って来た…兵の数が減ってるとは思えんが、恐らく山中への攻略を始めたのだろう」
土方がボソリと呟くが、銃撃の音で以蔵には届いていない。
次第に紫になって行く空を、土方は見上げる。徐々に敵兵が減って行き、以蔵も最後尾の攻撃を止めて空を見上げていた。
「囮の役目が終わったと見るか、夜間の攻撃を止めたと見るか…」
土方が紫の空を見上げながら呟くと、以蔵もそれに答える。
「まだ、包囲網は完成していないと見ます。完成していたなら、この時間帯を狙わない手は有りませんからね」
「夜へと移る、闇の時間か」
「私であれば、包囲網が完成すれば今より三方向から攻め込みます」
二人の視線は紫の空から、左右の山頂へとゆっくりと移って行く。
「土方さん、滝川さんを呼んで下さい」
「…何か策があるのか? 分かった。市村、市村は居るか」
土方は市村鉄之助を呼び付け、伝習士官隊長の滝川を呼んで来るように命じた。
「策と言う程ではありません。が、恐らく山中から撃ち下ろしと出た時、増援の彼等が真っ先に山中へと分け入ると思い…」
兵士の疲弊度合いを考えれば、既に十日間緊張を身に纏い続けた先遣隊よりも、途中参加の彼等が真っ先に山中に向かうと踏んだのだった。
程無くして、市村は滝川の後ろに続き戻って来る。
「お呼びですか、土方司令官…」
「俺では無い、修羅がお前と話したいとな」
甲鉄奪還戦で土方と共に突撃した男を英雄視していた滝川は、背中をグッと伸ばして以蔵を見た。
「そんなに怖い顔で見ないで下さい。私は一兵卒ですから…」
あまりに畏まる滝川に、以蔵はそう言いながら苦笑いを浮かべる。が、それでも片膝を着き、身を低くして尚も背筋を伸ばしている。
以蔵はやれやれと苦笑いを保ったまま口を開く。
「敵軍は恐らく、明日以降に山中からの撃ち下ろしを開始するでしょう」
「我々は、そこに向かえば宜しいですね!?」
流石は戦場に生きる男。反応が早い。
「突撃は少し待って頂きたいのです」
以蔵のその言葉に、滝川は表情を曇らせ、反論する。
「お言葉ですが…山中からの撃ち下ろしになると、形勢は逆転。胸壁が役に立たず、逆に撃ち上げとなれば木々が彼等を守護致します。山中へと踏み込まねば…」
「胸壁の左右の高さを高くして下さい。今、余力があるのは伝習士官隊ですから、あなた方が中心となり、防壁を強固にします」
「………」
戦をしに来た彼等にとって、防壁構築という作業を命じられた事は、若干納得が行かない様子だ。
そこに土方が助け船を出す。
「滝川、この胸壁は農民や商人が作った訳ではない。みな戦士が築き上げ、身を守り攻撃をする武器となっている。甘く見ないで貰いたいな」
土方のその一言に、滝川は腹を見抜かれたと俯き、赤面する。
「お恥ずかしい…。どこまでも腐った武士となる所でした。岡田殿、失礼致しました」
「あ、いえ…別に…」
早々に頭を下げてその場を立ち去ろうとする滝川に、以蔵は再び声を掛ける。
「待って下さい、本題が残っています」
ピクリと身体を震わせ、振り向く滝川に向かい、以蔵は口を開く。
「山中突入の合図は私が出します。私は胸壁の列の中盤に控えていますので、伝習士官隊の皆さんはそれより後方に位置して下さい」
「我々に後方支援を命じられる…と、言うのですね?」
滝川は、またも不満そうに言うが以蔵は睨みつけて言う。
「イチイチ自らを蔑んだ発言をするな…、面倒だ。戦場に於いて持ち場が不満なら、敵に背を向けて逃げ去れ」
その言葉は静かに、重く滝川に浴びせる。土方は何も言わず、徐々に静かになる銃声を聞いている。
滝川は、目を剥いて驚いていたが、暫くしてその場に正座をし、背筋を伸ばして応えた。
「失礼仕りました…。では、岡田殿突入の際に我々が取るべき行動を」
その様子を感じた土方はニヤニヤ笑っていた。
「二手に分かれ、山中へと『斬り込み』ます」
以蔵はそんな土方を無視して滝川に伝える。
「銃撃では無く、刀で、でございますか?」
「銃に重きを置くこの二股口…。轟音に慣れた兵士は、無音の暗躍部隊を畏れます。それに近距離戦にはやはりコレでしょう」
以蔵は柄に手を置き、ニヤリと笑った。
そして、滝川も釣られて笑みを浮かべて言う。
「やはり武士はこれで戦う方が似合っていますからね」
その言葉の後、土方を含め三名は懐かしい笑みを浮かべていた。
「滝川さん、一つ条件があります」
笑みを浮かべたまま、以蔵は滝川に言う。
「山中に攻め入る際、一切の声を禁じます」
人は恐怖を打ち消す為、大声を出す。虚勢を張る為に大声を出す。威嚇する為に叫ぶ。
突撃の際、声を出すなと言うのは人としての感情を、一切打ち消せ、と言うに等しい命令。
「全ての指示は、身体の動きで出す。そして一切の音を禁じ、無音の恐怖で敵を支配させて下さい」
「承知致しました」
「右の山中には私が参ります。左の山中の指揮は滝川さん、貴方が執って下さい」
滝川はその言葉の後、深く頭を下げてその場から去って行った。
「勝手な真似をしてしまい、申し訳ありません」
「なに、お前の事だ…。妙案には我々も縋りたいからな」
土方は以蔵を信頼していた。司令官を隣に置いてまで独断での戦法を勝手に決めた男に対し、笑みで返す程の信頼。
その二人を羨望の瞳で見つめていた市川鉄之助…、この時はまだ少年だった。が、侍という男達の生き様が、刻々と脳裏に焼き付いて行った。




