民の犠牲と怒り
四月十六日。五稜郭本陣の榎本総裁に、一時新政府軍撤退成功の報告と、弾薬・食料・増援の要請を行う為に土方は箱舘に戻っていた。
「二股口だけだ…他は圧されている」
榎本は悲痛な表情のまま、土方に言った。つまりは援軍を回せる余裕が、どこの前線にも無い、という意味合いだった。
「乙部からの最短路は二股口です。ここを突破されれば、ここ五稜郭は一瞬で崩壊します」
「分かっている…、分かってはいるが、かと言って他を薄める訳にはいかんのだよ」
乙部より差江を経て南下し、松前より迫る敵軍。差江より東方に進路を変え、木古内に向かう第二軍。この両軍を抑えなければ、二股口とて挟撃される事は分かっている。
「榎本総裁…、戦で勝つおつもりか」
土方のこの言葉に、榎本の気持ちが揺れた。
逃げはしない。武士の戦に逃げは無い。だがこれ以上の援軍は、外には頼れない。榎本は良くも悪くも軍人だった。
「二股に援軍を回せば、松前・木古内で防衛している拠点を諦める事に繋がる。南東よりここ五稜郭に攻め上がられれば、二股で防衛している意味を成さなくなる事も、理解しろ」
二股を抜かれれば、乙部からの最短ルートを敵に与えてしまう事を危惧する土方と、他を手薄にすればその二股すらも放棄せざるを得なくなる状況を解く榎本。
二人しか居ない、六畳程度の総裁室。
北の地に遅い春が巡って来た本陣は、窓を開け放っていた。
戦時とは思えない長閑な風景が窓から広がっており、気が高ぶる二人はその景色を苛々を募らせながら眺めていた。
そして、その景色の中に一人の男が現れる。
「申し訳ありません、お話しが聞こえてしまいました…」
「滝川…、何用だ。今は軍議の最中だぞ」
そこに居たのは滝川充太郎だった。かつての宮古湾戦争に土方と共に出向いた男で、伝習士官隊を率いている。この時は箱舘警護に着いていた。
「申し訳御座いません。ですが、現在の戦況を思うに箱舘警護よりも我々が前線へと出向くべきかと」
この男も、土方と同じく戦場に置いて生きる道を探す男だった。
「一個連隊の隊長が、軍議に口を挟むか?」
榎本は眼光の鋭さを増し、滝川を睨みつけるが、一向に怯まないばかりか、更に言葉を続ける。
「各方面の陣ともに殲滅覚悟の玉砕戦はしておりません。敵数を減らし、本陣へと巡る被害を抑える為の戦を展開しており、勇戦しております。我々がここで討って出無ければ、二股を破られ彼等の背後に敵を送り込み、退却も儘ならなくなり、総崩れと成りましょう」
滝川のその言葉に、榎本も答える。
「その為に本陣警護を離れる、と言うのか?」
「本陣警護は、守備が突破され初めて役目に就く物…。その時には、松前・木古内、更には二股からの撤退残存兵力も守備に就きましょう」
彼らの頭の中に、『戦に勝つ』という言葉は最早無い。如何に戦い抜くか、ただそれだけだった。
ここで、土方は滝川に問う。
「松前・木古内への増援には名乗りを挙げぬのか?」
「はっ、拙者は甲鉄攻略の折り、土方司令官の鬼神とも思える戦いぶりに感銘をお受け致しました。雷鳴の如き突撃、疾風の如く戦場を巡り、堂々とその場よりの生還…。そう有りたいと強く思う所があり、是非に共に命を使いたいと」
「あれは負け戦だ」
土方は苦笑いをして否定するが、
「失礼ながら、岡田殿と申される御仁との遊撃は見事と、隊士の中でも話題になっております」
「何も戦果は無かった。ただ突撃し、数人を斬り、撤退しただけの事…」
「侍であれば、御仁の戦ぶりを称えぬ者はおりません。敵艦の上で敬礼をしている者も有りました。是非、我等伝習士官隊に出撃命令を!」
滝川は頭を下げ、榎本に請う。
「戦馬鹿がこう多くては、どうしようも無いな、土方…」
榎本は苦笑いをしつつ土方を見遣る。そして、それに応える様に笑みを湛えつつ、頭を下げる土方。
「お褒めに与り光栄です」
「嫌味にならんのが、嫌味に感じる。良いだろう、しかし真っ先に二股を抜かせる事は許さん。他方の挟撃だけは防げ。そして他方が抜かれ、挟撃の恐れありと踏んだ時点で、ここまで生きて戻れ。野山で討ち死にする事は断じて許さん」
榎本はそう言うと立ち上がり、五稜郭から見える南東の、青く澄み切った空を見上げた。
四月二十日、二股口。
土方は滝川充太郎率いる伝習士官隊二小隊と、弾薬等を持って二股防衛戦線に戻った。
そこには疲労困憊の以蔵の姿があった。
時は少し遡り、土方が軍備を整えていた十七日の事だった…。
「岡田殿、山中に忍ばせていた斥候からの伝令です…」
新撰組の羽織を着た男が、以蔵の元に来た。土方不在の時、立場的には土方の護衛でしか無かった以蔵だが、新撰組にとってはかつて共に過ごした『浅野薫』であった為、その存在を頼っていたのだ。
「どうされました?」
「南の山に…新政府軍と思われる斥候を発見した、との事です」
「遂に来ましたか、恐らく今後は北の方にも来るでしょう、少し脅して来ますか」
「では、新撰組を集め…」
「いや、皆は持ち場に居て下さい。ここを離れるのは得策ではありません」
以蔵はその申し出を断り、単身での行動を訴えた。
「岡田殿! 相手は少なく見積もって二十名…。山間での戦になれば厄介です」
「山間であれば、数の不利は平野程厳しくありませんよ」
以蔵はそう言いながら、羽織を着る。
「囮…という可能性もあります。全員に戦闘準備を整えさせておいて下さい。我が軍の斥候には、しばらくここで待機させ、山間には立ち入らぬ様指示をお願いします」
以蔵はそう言い残し、南の山へと分け入った。
わざと草木の音を立て、全神経を周囲に広げ、無造作に進んで行く以蔵。
『成る程…殺気が濃いな。ゲリラ、という奴か、戦慣れはしていない連中だ。アイヌの人達が言っていた、箱舘の民か…』
兵士で無くては、斬るにも躊躇う…。だが、ゲリラは何やら統率されている様子である事から、新政府軍の誰かが率いているのだろう、との予測は立った。
以蔵は木立が無い、少し開けた場所に出て、目を閉じる。
『囲まれてる…か』
そう感じた瞬間、以蔵は正座をして微動だにしない。
自らの音を消し、周囲と一体化する。
ゲリラであれば銃は使わないだろう。今、自らの存在を明かすには時期が早すぎる。
以蔵はそう確信していた。
その上で、新撰組の羽織を着て、敢えてその存在に気付いていると言わんばかりに正座をしたのだ。
ゲリラにすれば誘われている事は分かっていても、その存在を知られるのも得策ではない。
この場で殺すか、しかし殺せば戻らないこの男を幕軍が探しに来るかもしれない。ここで戦をすれば銃を持たぬ彼等に勝機は無い。
ゲリラたちの中に焦りが生まれた。そして、その焦りが身体の動きを狂わせ、その音が以蔵に伝わる。
ゆっくりと目を開け、立ち上がる以蔵。
そのまま反転し、一気に走る。その先には輕鎧を身に付けた男が五人、槍を構えている。
真ん中の男に駆け寄りながら、穂先が当たる寸前に左に飛び、槍を奪い顔面を殴打する。その勢いのまま二人目の腹を鐺で突き倒し、三人目は脚を掬い上げ倒し、腹を踏む。四人目は突きで応戦するが、その槍を交して脇に挟んで掴み、水月を鐺で突き倒す。
以蔵は二本槍を左右に開いて脇で構え、五人目を睨みつける。無論、穂先は背中に隠して殴打で戦う事を知らしめる。
『二本槍…何かゲームで見たな、こんな奴』
ふと平成の時代を思い出して笑いが込み上げる。ゲリラには無気味に見えただろう。
そして、そのままの体勢で声静かに出す。
「新政府軍斥候二十名程とお見受け致す。ここより先に進む事は許容しかねる故、退けば良し。仮に攻め入るならば、新撰組がお相手致す。だが、命を狩らずにお相手する自信は無く、棄てるご覚悟で参られい」
その言葉で出て来たのは、脚元が震えているゲリラ十二人だけだった。どうやら指揮官は隠れて逃げ通す腹なのだろう。
「情けない…」
以蔵はそう呟き、脇に構える槍をくるりと回し、切先を前に出した。
「申し訳ないが、加減はできぬ」
そう言うと、目の前に居る五人目の男の首を横に叩き抜いた。刃先は使っていないが、身体の回転と共に、脇で固められた槍はその男を薙ぎ倒し、以蔵は振り返る。
「自ら正義の様な面をしやがって…戦の為の税で、ワシ等がどれだけの被害を被ったと思っておるのだ!」
やはり、箱舘中央が毟り取った税に対する恨みだった。
「申し訳なく思っている。だが事情を知らず新政府に加担するお主等も、拙者等にとって見れば同じ事…。戦を回避する為に、どれだけの書状を新政府に出したかご存じか?」
「そんな物、知らん!」
「ならば知れ、その不戦の書状を尽く黙殺し、戦へと歩み出したのは新政府なるぞ。拙者等武士は、ただ生きる事すら、魂を残す事すら許容されぬ存在となったのだ」
「横暴の限りを尽くした野党だ!武士などと名乗るな!」
一人のゲリラが、左から斬り掛かって来る。
以蔵は刀と見ると、左の槍でその斬りかかる腕を斬り上げ、返す槍で頭を叩き下ろす。
白目を向いて枯葉の上に倒れる男。
「戦に正義も悪も無い! だが我々は生きた証を残す為に、不戦の道をも選んで此処まで辿り着いた。それすらも許さぬ新政府に対抗する為、税を掛けた!」
今度は左右の男が、刀と槍で向かって来る。
以蔵は右から来る槍を横に叩き、軌道を逸らし、突っ込んで来た男の脚を蹴る。
重心を崩した男は、そのままの勢いで左から来る男の喉元に槍を突き立ててしまう。そして、以蔵は槍の男の後頭部を槍で殴りつける。
「お主等の恨みであれば、受けよう! だが新政府に加担するとなれば、我等とて敵とみなし戦う!」
既に九名となったゲリラ相手に、以蔵は槍を構えたまま突撃し、正面の二人を串刺しにし、そのまま蹴り倒して槍を抜く。
「考えろ! お主達を扇動した新政府軍の指揮者は、今表に現れているか!」
残る七名に聞くと、彼等は辺りを見回した。
いままで居た男の姿が見えない。彼等は動揺しつつも武器を構え、チラチラと周りに気を回し始める。
「利用されているのだ、お主達の怒りは…。命を張らずとも、我々は民に刃先を向ける事は無い。戦が終われば、どんな事でも償おう。この羽織にかけ、約束する」
以蔵のその言葉に、ゲリラは皆、武器を棄てた。
「さあ、隠れて無いで出て来たらどうだ。民を戦に道連れた卑怯者」
以蔵は槍を棄て、右前方を見る。
「新撰組か…。思うようには行かぬな」
二人の軍服姿の男が、茂みから現れる。
「得策では無いが、ここで果てて貰うとするか。お主達侍の時代は終わるのだ」
そう言うと、一人の男は懐から銃を取り出す。
「皆! 俺の背後に立つな!」
以蔵はそう叫び、その男に向かって走り出す。右手を柄に掛け、左手は鞘を握り、腰を低くして木立を縫うように。
横に移動すれば銃弾も外しやすくなるが、それでは民に流れ弾が当たる。
微妙に身体を左右に振わせつつ、間合いを一気に詰める。
新政府の男二人は、二発・三発と応戦するが、以蔵の肩・頬・脚を掠めるだけでその間合いは一気に無くなる。
以蔵は向かって右側の男の、更に右側を駆け抜け、脚を止めた時、その男の上半身が脚元に落ちる。すれ違いざまに腹を居抜いたのだ。
その様子を見たゲリラたちは、悲鳴を上げながら四散し、隣に立つ新政府の男は、顔から血の気を失い立っている。
以蔵は抜刀したままの刀をその男に向け、言い放つ。
「民を戦に巻き込み、自らはその背後で高見の見物…。卑怯者め。今すぐ姿を消せ、そして伝えろ。今後、もし民を巻き込めば、この岡田以蔵が、今度はこの羽織の元に内地に戻り、お主達を潰すとな」
その言葉の後、男は後退りを始め、腰を抜かしたように走り去った。
「すまん、お前達の命を奪ってしまった…」
全てが去った後、地面に転がるゲリラの身体、一つひとつの前で膝を着き、合掌する。
そして、全ての魂に礼を尽くした後、穴を掘り野山に埋めた。
「犠牲の元に、何が残るんだ…。俺が居た世界に、彼らの何が残ってるんだ…」
名も無い墓標の前に、以蔵は崩れ落ちて涙を流した。
「岡田…済まなかったな、我等の軽率な行いで…」
「土方さん、その謝辞は蝦夷地の民に向けるべき言葉です…。それに、私もその中で戦っている。私も負うべき罪です」
以蔵は土方の連れている滝川に目を遣り、言葉をかけた。
「宜しくお願いします。ただの戦にだけはしないで下さい」
以蔵のその言葉の裏に、何があるのかはこの時の滝川には分からなかった。




