以蔵、最後の戦い
本来の岡田以蔵、人斬り以蔵は土佐藩出身の浪人である。そして土佐は藩を上げて居合を保護しており、藩外不出とも言われる程の「お家芸」にまでなっていた。
そうなると、当然のように以蔵も居合を習得しており、この目の前に居る『宜振』とて当然である。
むしろ、健一が居合という業でここに居る事、そして岡田以蔵と名乗った事も至極当然の成り行きに思える。が…そうなると、気に掛かるのは本物の『人斬り以蔵』の実力である。
吉田東洋暗殺の時、一度刀を合わせた事はあるが、恐らくその頃の腕前と思うのは危険である。何度も暗殺を繰り返し、征長戦争の最中に高杉を襲撃するという事を踏まえると、相当な修練を積んでいる筈である。
「どうやら、以前のようには終わりそうも無いな」
「当然じゃろ…? ワシの目標はただの人斬りでは無いき。修羅を斬るっちゅう目的があったきの」
お互いに、それ以上の言葉は出さなかったが、少しずつ距離が近付く。刃圏を争っていた。互いに初太刀を伺いながらも、後の先を取ろうとしている。
太刀の長さはそれほど変わりはしない。身長は健一の方が高いが、刀の長さは殆ど同じ。つまり同じ業、同じ刃圏となると、勝負は一瞬で終わる可能性が高い。それ故に、互いに初太刀が出せないでいた。
健一は覚悟を決めた。
幕末という時代での、最たる歪みは補正された…。最早この時代に自分は必要が無い事は明白。
『相討ち…。それも良いだろう』
健一は、ふうっと息を吐き、目を閉じた。それが完全なる隙だとは、宜振も思っていない。
目を閉じたまま、暫く時が流れるが、お互いの距離はジワジワと詰まって来ている。
『化物じゃの…目を閉じたまま、的確な歩幅で距離を取っちょる…』
健一のその間合いを測る業は、刻を超えたからこその物。初めて龍馬と対峙した時、桜田門で水戸浪士と出会った時、その感覚は身に着いた。そこに呑まれた宜振は、歩幅を乱した。
冷たい風が宜振の胸を駆け抜ける。
「ちゃちゃ…。いかんぜよ、危うく体が上だけ落ちる所じゃった…」
健一は眼を閉じたまま、太刀を居抜いていた。その切っ先は宜振の踏み込みを防ぐため、前方に向けて止めている。そして、宜振の胸は着物が斬り裂かれ、皮が横一文字に切れている。
「もう半歩狂っちょったら、真っ二つじゃったの…」
冷や汗を大量に流しながら言うが、健一はそのまま切っ先を宜振に向けたまま瞼を開く。
「流石に、一太刀では終わらないか…」
健一はそのままの抜刀姿勢で、即座に右足を踏み出して突きに転じる。
腹に狙いを移した突きは、宜振の着物を引き千切る様に通過し、彼は身を捻じりながら脇差を抜き放つ。突きに来ていた健一との間合いが接近している事もあり、脇差は健一の右腕を斬る。
健一の右腕を斬り上げた脇差は、そのまま角度を下に変え、肩口へと向かって突き下ろされる。
しかし、健一は後ろに引かずに宜振に体当たりをして間合いを詰め、脇差を交わす。
体を密着した二人は、互いに独自の領域を作っていた。既にその空間は二人しか存在しておらず、周りは暗闇では無く、白々とした空間に包まれていた。
宜振は健一の体との間に膝を入れ、グイっと蹴りながら間合いを取り、引きざまに脇差で肩口を掻くように斬る。健一も引き際に脇腹を引きながら斬る。
「ふうぅっ……おまんも、ワシと同じ考えかぃ」
「その様だな…」
二人はそう言うと、再び納刀して居合腰を落ちつける。
本気の果し合いであれば、別れ際の際に大きな斬撃を与える筈であるが、お互いに牽制のみの斬撃である事は感じている。
勝負は自らの最高の一太刀で終わらせようとしていた。
宜振の周りは、変わらず白い世界が覆っていた。全ての音が消え、彼の五感は健一ただ一人を捉えていた。筋肉の動きすらも見逃さない様に、集中している。
一方の健一は、宜振を取り囲む全ての物が意識下に入って来る。
足元の草、土の音、風の音、更には鴨川の水面の音までもが頭に流れ込み、瞼を閉じていてもその光景が頭に直接流れ込むような感覚が広がり、その感覚が宜振をも巻き込み、静寂の中に全てを取り込んでいた。
宜振は、静かに間合いを詰めていた。そして、その間合いに反応したのは健一だった。
即座に横一文字に抜刀をし、宜振の腹を狙うが、ジリっと砂利を踏みにじりながら足を回転させて間合いを開き交わす。そして、健一の切っ先が体の前を通過した瞬間、宜振は抜刀をする。
完全に後の先を取った宜振。しかし、健一は一の太刀を振り抜いた勢いで、太刀を投げ捨て、そのまま体を回転させながら間合いを詰め、脇差を抜き打つ。
宜振の太刀は健一の背中に食い込むように止まり、健一の脇差は宜振の胸に大きく突き刺さっている。
「二段居合かぇ…参ったのぉ…」
「後の先を取り合うと、相討ちになるさ…」
「相討ち…っち、言うがか、これを」
「俺は一の太刀を囮に使った…。全ては二の太刀で決まった」
健一は宜振の胸に食い込んだ脇差を抜き、フラフラと体の向きを変えた。
「居合は初太刀で決まるっちゅう事を無視しちょるがか…」
宜振は苦笑いをしながら、胸の刺し傷を手で塞ぐ。
「血が止まらん…心の蔵は外れちょるが…ワシは終わりかの…」
宜振の顔からは血の気が引いて行く。胸からの出血が止まらない。
しかし、健一も背中の一太刀が大きく喰い込んだため、背骨を損傷している。斬り結んだ興奮で痛みは麻痺しているが…次第に脚から力が抜けて行くのが分かる。
「宜振…見ろ、星が沢山見える」
「べこんかぁじゃの…。ワシは血の流し過ぎで滲んじょるわ…」
健一は宜振の太刀を奪い、抱きしめる。
「岡田以蔵は、もういらない」
「ワシは岡田宜振じゃ…。おまんが以蔵じゃろ」
「どちらも表裏一体…。今、この時に生きていてはいけない…」
健一はグッと力を入れて抱きしめ、宜振の体を拘束する。
「待ちや…何をするがじゃ…」
その言葉が終わる時、宜振の背中に太刀が突き刺さった。
「ぐぅうっ…! き…きさん、気が触れたがか…」
流れ出る苦痛の声は小さな叫び声に近かった。
宜振の背中に徐々に刺さって行く太刀は、音も無く宜振の命を削り取っていく。
「がっ…あぁ…」
その叫びを最後に、宜振の体からは完全に力が消えた。
「江戸…幕末…。俺は本当にここに居たのか…。星がきれいだ…」
健一は、ひとつ大きな呼吸をして、宜振の背中に一気に太刀を突き込んだ。
「ふぐっ」
健一は吐血した。
宜振の背中を貫いた太刀は、そのまま健一の胸までも貫き、背中から突き出ていた。
「佐那…すまない。俺は帰れそうにない…」
消えゆく意識の中で、健一はもう一人の自分を抱き抱えたまま、星空を見上げていた。
どこまでも広がる星空は、まだ弱い月明かりの元で煌々と広がる。
深夜であるはずの京の町に、遠くから「エエジャナイカ、エエジャナイカ」と声が聞こえる。
エエジャナイカ・エエジャナイカ
龍馬と同じく、騒乱の中で命を絶ち、その影を刻の中へと消していった…。
ただ、勝海舟の護衛、人斬り以蔵、暗殺者…その記憶だけが残る。




