決闘の油小路
その日、伊東は近藤の妾の家で酒を酌み交わしていた。
会話の内容は定かではないが、伊東が近藤の誘いに乗り新撰組局長と酒を呑むと言う事は、この時点では考えにくい事だった。しかし、近藤も土方に情勢を聞いており、斎藤からの情報も入り、伊東を含む御陵衛士の危険性を感じ始めていた。
亥の刻が過ぎた頃、酒の席はお開きになり妾宅を二人で出る。
「では、気を付けて帰れよ」
「局長も…。過激な連中には重々…」
伊東はそう残して一礼し、夜道を歩いて行った。
3日前とは打って変わり、騒々しい囃子は聞こえて来ない静かな夜。油小路津屋橋辺りまで来た頃、木箱に座る男を見付ける。
伊東は警戒しながら近寄り、言葉を発する。
「待ち伏せですか」
その言葉に応える様に、ゆっくりと立ち上がる。
「伊東、お主の企みは何だ」
「土方副長…。可笑しな事をおっしゃいます。拙者に企みなどありはしません。いや…あるとすれば平和の為への礎を築く事…」
そこまで言うと、近隣の家の影から新撰組数人の姿が現れる。
完全に気配を消し、闇と同化していた人斬り集団の登場に、伊東も驚きを垣間見せる。
「近藤までも引き込み、遂に暗殺って訳ですね…。良いでしょう、酒が入っているとは言え、北辰一刀流の剣筋が衰えるまで呑まれていません」
そう言いながら柄に手を添えた所で、
「我々は貴様に関与しない。斬ってやりたい気持ちは大きいが、奴の憤怒と比べれば微々たる物」
と、土方が新撰組隊士の抜刀と共に、伊東の動きを封じる。
そして、伊東の正面からは一人の男が歩み寄る。
「これはこれは…伝説の岡田以蔵ではありませんか」
伊東の口元が怪しい笑みと共に歪む。
「征長戦争…。幹部達の暗殺未遂事件を起こしたのは、坂本龍馬暗殺を新撰組に阻止させる為の布石だな…?」
「彼が死ぬと、海軍の発展が後退しかねませんからね…。中岡も然り。しかし拙者は甘かった。まさかお主が友を斬り殺すとはね」
「山南敬助を利用し、自らの危険性を誇示。その死を持って貴様の印象を強烈に残す事も計算の内」
「そこまで分かっていますか…」
以蔵は歩み寄る足を土方の隣で止め、大きく息を吸い込み、再び尋ねる。
「高松と出会ったのは何時だ?」
「丁度…貴方が大坂に向かった頃ですよ。私のやろうとしている事と目的が同じだったので、手を結びました」
「大坂で俺が『宜振』と出会ったのには関与していないのか?」
「あれは高松の策略ですね。しかし見事見事…そこまで明白になっているとは」
「坂本龍馬が死ねば、計画は狂う」
「岡田以蔵…貴様は我々侍の事を分かっていない。坂本が死に、均衡を保つ男が居なくなった時はそれに引き摺られるように乱れる志士達が、倒幕派・勤王派共に居る…。どちらにしても我々が勝つようになっているのだ」
大きく口を開け、歪んだ笑顔を見せる伊東。
「馬鹿め…。この先、どう乱れようが刻は乱れん。どちらの志士も、その信念は和平にある。例え戦が起ころうとも、それを止めようとする男が必ず立ち上がる!」
以蔵は激しく言い放つ。そして、その言葉の後、土方が口を挟む。
「岡田、奴の時間稼ぎに乗るな。聞きたい事は全て聞いただろう。奴の仲間が来る前に、お前自身の決着を付けろ」
以蔵は草鞋を脱ぎ棄て、右腕に布切れを巻きつける。その布には、かつて龍馬の腕にあった桔梗の家紋が残っていた。
「伝説の抜刀術…見せて貰いましょう」
伊東はそう言いながら太刀を抜き、中段に構える。切先が揺れ、剣先の動きが読み辛くなって行く。
「北辰一刀流…か」
以蔵はそう言いながら腰を軽く落とし、脚を開き抜刀態勢へと入る。
神速か、業か。土方はその決着を見届けようと以蔵の背後に回り、距離を取って見守る。
「神速抜刀術に対抗するには、業・力が全て…。参る」
そう言った瞬間、伊東はそのまま付きで胸を狙う。
以蔵は左足を引きながら身を捩じり交わすが、そのまま伊東の太刀は横に薙ぎいて動く。
しかし、その動きを読んでいた様に後ろに弾け飛び、伊東の初断ちを交わす。
『沖田の突きには及ばない』
土方はその攻防を見た瞬間、以蔵の勝利を確信したが、以蔵は追い打ちを駆けずに止まる。
「見切っていたか…。流石としか言えませんね」
「…北辰一刀流なら、坂本龍馬の方が上。突きに及んでは沖田総司には遠く及ばない、三流以下だ」
以蔵はそう言うと、一気に間合いを詰め、低空の抜刀で伊東の右股を浅く斬る。
「ふぬっ」
伊東は一瞬の出来事と、右足に走る痛みに声を上げる。
以蔵はそのまま納刀し、伊東の背後にまで移動するが、伊東も身体を回し相対する。
「反応すらできないのか、貴様は」
その言葉に呼応するように、伊東は上段からの斬撃を繰り出すが、以蔵は交わさずに上方へ抜刀。刀を握る伊東の左手を、下から薙ぎ上げる様に斬る。
左手の小指から中指までを斬り落とされた伊東は、刀を落とす。
すぐさま以蔵は伊東の右肩を斬り、左膝に切先を突き刺す。
「貴様はすぐには楽にしない。苦しみ喘ぎ、叫び声を上げて死んでゆけ」
以蔵は地面に転がる太刀を蹴飛ばし、土方に渡し、伊東の脇差をも抜き取る。
「切腹すらさせぬ、と言うのか貴様は…」
「腹を斬りたいか?」
以蔵はそう言うと、伊東の腹を横に薙ぐ。
大量の鮮血が飛び、崩れ落ちる伊東。だが息はしている。
以蔵は納刀し、右腕に巻かれた布を掴む。それが何を意味しての行動なのか、彼自身分からず取った事だった。
地面にうつ伏せた伊東は、声にならない呻き声を上げながら、息を荒くする。そんな伊東に興味を無くしたように土方に歩み寄る以蔵。
「…もう、良いのか」
「私は、まだやらなければならない事が残ってますので…」
「岡田、その涙は、誰の為の涙だ?」
以蔵は涙を頬に流していた。赤く、血に染まった涙…返り血で染まったのでは無い事は、薄暗い夜道でも分かる。
「涙など、龍さんを切った時にも出無かったのに…」
苦笑いをしながら、以蔵は闇へと歩いて行く。
「奴の向かう先に、光があらん事を…」
土方は柄にも無く神に願っていた。
この後、伊東は油小路にて息を引き取り、亡骸を受け取りに来た御陵衛士の隊士三名もその場で斬殺される。
慶応三年 十一月十八日の深夜の出来事だった。




