第二十二章(ニ)
第二十二章(二)
「司、少し休もう」
紀伊也は隣でしきりに顔に水を浴びせている司にそう言うと、立ち上がって辺りを見渡した。
何処かで休めそうな所はないか。そう思って探すと少し下流の対岸に日の当たる場所を見つけた。
紀伊也は司の手を取ると、バシャバシャと川の中に入って行った。
途中、膝の上辺りまでの深さになったが、それ以上にならないよう少し遠回りをして短い川幅を渡った。
そして、日当たりの良い岸辺に腰を下ろすと、黙ったまま川を見つめている司に目をやった。
「司」
「ん・・・。 ごめん、大丈夫だから、ホント何でもないから」
自分を気遣う紀伊也の視線が痛い。
現実離れした今までの出来事を思い出すと、自分がこの上なく怯えている事に情けなくなってしまう。
しかし、何故ここに紀伊也が居るのか。何故皆と一緒に行かなかったのか。指令を出した筈なのに、という責めたい気もあったが、紀伊也が戻って来てくれたから自分は今ここに居る事が出来るのだと思うと何も言えなかった。
それに、あの出来事がまるで夢の中で起こった事であるように何も理解出来ていないのだ。
それを考えると文字通り放心状態でもあった。
それは司に限らず、紀伊也にも同じ事が言えた。
「司、ごめん。俺の方こそ何も出来なくて・・・。 実は今すごく混乱しているんだ。何が何なのかよく解ってないんだ。それに、ここが何処なのかも・・・」
戸惑ったように言われて紀伊也に視線を送ると、今までに見た事もない不安な表情をした紀伊也がいた。
「紀伊也?」
「こんなに不安なのは初めてだ。だからと言って司に言ってもどうにもなる訳じゃないんだけど、今までに起こった事が、あれは一体何だったんだろうって。伝説の入口が開いたところから俺達が通って来た道って、何だったんだろうって。何も解らないんだ。それに、さっき司が森を封印するって言ったあれの意味も理解出来ない。司の使命って言ったけど、あれは何だったんだ?」
「・・・」
「ごめん。司のやる事に聞いてはいけないし、逆らうつもりはないんだ。司のやる事が絶対だって事は分かってるけど・・・」
「紀伊也・・・」
司と紀伊也の絶対服従の主従関係では解り切っていた事だし、何もそれが疑問に思う事ではない。しかし、紀伊也には今ここで起こっている自分を取り巻く状況をどう把握していいか分からない。自分自身に説明が出来ないのだ。
納得のいかない中で、前には進めなかった。
「ごめん、司。 今言った事は忘れてくれ。とにかく俺は何が何でも司を守るから」
「紀伊也・・・」
初めて聞いた紀伊也の弱気な言葉だった。
これだけ自信のない紀伊也は初めて見る気がする。常にどんな状況に置かれても冷静沈着で表情一つ変えた事のなかった紀伊也が、これ程までに不安な表情を見せるのは恐らく初めてだろう。
そんな紀伊也に司は戸惑ってしまった。
誰をも頼る事を許されず、ただ自分の右腕と言われる紀伊也に命令しているだけだったが、実はそれが紀伊也に頼り切っていたのだと気付いてしまったのだ。紀伊也にそんな不安な表情をされては、自分の方こそ不安になってしまっていた。
司は自分自身に情けなくなってしまったが、同時にふっと一息吐くと、前を見据えた。
これ以上頼る訳には行かない。
「前にオレが勝手に一人でTrue Lakeに行った時があったろ」
そう話し始めた司の瞳は落ち着いた琥珀色をしていた。
「あの時、ヤヌークに会った」
「ヤヌーク?」
「森の番人のサーベル・タイガー。ヤツの名だよ。その時アイツはオレにこう言ったんだ。聖なる森の真実を見るがいい。お前の使命を果たせ と。あの時ヤツが何を言っているのかさっぱり分からなかった。それに、おかしな事があり過ぎてその言葉自体すっかり忘れてたんだ。けど、シーメに会った時にも同じ事を言われたんだ。使命を果たせ と。そして、シンラ。彼女はいつの間にかオレの傍に居た。アルナンの力を感じてそれを探していたらヤニ族に捕まってしまったと言っていた。でも彼女はオレが聖なる森に行った事を知っていた。そして、シーメの事もよく知っていた。そのシーメがオレに炎の石を託した事も承知していたし、大地の石を持っていた事にも何の疑問も持っていなかった。それよりシンラが持っていたコスモスの石をオレに託したんだ。そして彼女はこう言った。使命を果たせ と」
そこまで話すと司は急に黙り込んで自分の右手の平を見つめた。
「何の使命を果たせばいいのかさっぱり分からなかった。けれどシーメもシンラも同じ事を言っていたんだ。碧き石を戻さないと大変な事になると」
「大変な事?」
「うん。 災いが世界を襲う と」
「災い?」
「何の災いかは分からない。けれど、次の新月がその期限だと言っていた。新月の夜までに石をあの場所に戻さないと何かが起こる。何が起こるのかは分からない。けれど、ただ思ったんだ。石を戻して伝説の人間を元の世界に返してあげなければいけない。それに、伝説のものが現実にこの世界にあってはならないんだと。オレ達能力者が存在して、人を操るような事をしてはならないのと同じように、伝説は伝説でなくてはならない。ただそれを信じる信じないは、己の考え次第だ。
火の怒りを鎮めるのは大地、大地の怒りを鎮めるのは光、コスモスとは秩序ある事、朝陽は始まりの光。 これは自然の摂理だ。人の手で故意にこれらを壊してはいけない。 そう思った。 だから石は元の場所に返さなければいけない。 それに・・・」
司は一旦言葉を切ると、自分の右手の平を見つめ、拳を握り締めた。
「何故、このオレに使命を果たせと言ったのか・・・、考えたんだ。そして思い出したよ。True Lakeで見た自分の姿を」
「True Lake での真の姿?」
「ああ。 ・・・ あの時、あの湖に映ったのはタランチュラに重なった自分の顔だった。オレが死ぬまで使令にしたあの時のタランチュラだった。だからオレはやっぱり最期まで能力者として生きるしか道はないのだと改めて気付かされたよ。だからヤヌークはこのオレに託したんだ。森を封印しろと。聖なる森を封印して碧き石を封印しろ、と」
「碧き石を封印・・・」
「オレにはそう聴こえた」
司は自分で考え抜いた事を紀伊也に正直に話していた。
それが良いのか悪いのか、それで良かったのか悪かったのか、その答を求めた訳ではない。後悔している訳でもない。言い訳でもない。ただ自分が信じた事を口に出していただけだった。
「司、俺はお前を信じるよ」
紀伊也の目には、何の曇りもない澄んだ琥珀色の瞳が映っていた。
こんなに綺麗な司の瞳の色を見た事がない。自分が主としている司を崇める訳ではない。司について行く。ただそれだけでもない。紀伊也自信の信じているものなのだろう、司にそう言った時、True Lake に映った司の顔を思い出した。
今まで司の為にして来た事が自分の真実であったのだと確信出来たのだ。そこに偽りはなかった。
同時に二人は安堵の空気に包まれた。
「紀伊也、ありがとう」
司はそう言って笑みを浮かべると、両手を後ろについて空を見上げた。
高い木々の隙間から覗く空は、絵の具で塗ったような青い色をしている。白い雲一つなく澄んだ青い空を、真夏のような太陽の光がいっそう青く際立たせていた。
キーっ キーっ と鳴く獣の声にも慣れていたが、それが現実へと導いていく。
ザザザっと、獣や鳥が木々を揺らしている。
しばらく黙ってそんな音を聴いていたが、やがて司はふっと我に返ったような息を吐くと、
「ここに居ても仕方ないな」
と、苦笑いを浮かべた。
それに対して紀伊也も同じような笑みを浮かべると、軽く頷いた。




