天国か地獄か
何も考えずにここまで来た。
本当に私は何も分かっていなかった。
分かろうともしなかった。
幸せって何だろう。
国って……一体何なんだろう。
――・――・――・――
「この調子だと、日が沈む頃にちょうど着きそうだ」
人通りの少ない静かな街道の真ん中で、ぽつりと碧はそう話していった。
「やった! 京都は修学旅行ぶりだなぁ。本物の十二単、やっぱり綺麗なのかな。マロは~とか言うしゃべり方する人いたりして。平安時代って言ったらきらびやかで、おっとりまったりでとにかく綺麗なイメージだもんね。ちょっと楽しみになってきたかも!」
最初は京都まで歩けるのかどうかばかりが気になって不安ばかりが募っていたけれど、いざ京都を目の前にすると胸が高鳴っていくのを感じた。
せっかく平安時代に来たのだから、平安貴族の暮らしを少し覗いてみたいし、もっと言えば紫式部や小野小町みたいな有名人にも会ってみたい。
うきうきと心を躍らせる私の様子に、何故だか碧は不機嫌そうな様子を見せ、何も言葉を発さないまま、鋭い目で私のことを睨んでいった。
まるで、獲物を狙うライオンみたいな威圧感のある強い視線……。
やばい。これ、だいぶ怒ってる。
何でこんなに怒ってるの!?
旅は楽しい方がいいに決まってるのに。
そう思いかけてふと考えなおす。
やっぱり、怒るのも当然か。
仕事で来ているのに、一緒にいる人が旅行気分で浮かれるっていうのは見ていてイラつくだろうし、もともと私のせいで碧は余計な仕事を押し付けられているわけなんだもんね。
いい加減な気持ちで、仕事に臨んでたことをとにかく謝らないと!
「ごめん、なさい。仕事なのにはしゃぎ過ぎた。気をつけるよ、ほんとごめん……あー、うーん、えーと」
真剣に謝るけれど、碧の怒りが治まる気配はまるでない。
謝っても無反応なんて、一体どうしたらいいんだよぅ。
とりあえず、ダメもとで話を変えてみよう。
「そういやさ。碧の話、間違ってなかったね」
無理に笑顔を作って問いかける。
「俺の話? 一体何のことだ?」
よかった、返事してくれた。
不機嫌そうではあるけれど、さっきみたいな怖さはない。
このまま気持ちを怒りから遠ざけさせねば!
「山賊のことだよ。私がこの時代に来た時、山賊に攫われないようにって起こしてくれたじゃない? あの時は山賊なんていない! って私言い張ったけど、見事にいたね」
山賊なんて過去のもので一生見ることないと思っていたけれど、まさか自分がその山賊に狙われることになるとは思ってもみなかった。
「ああ、懐かしいな。あの時はこいつ、何て頭のおかしなやつだと思ったもんだ」
ふぅと息を吐いていくと共に、碧の表情が柔らかくなっていく。
いつもの碧の様子に戻ったようだ。
「だよね、私のこと変人って思ってるだろうなって、すぐわかったよ。だって、すごい目で私のこと見てたもん。でもさ……山賊はいたけど、あの時言ってたようなもののけや鬼はさすがにいないよね」
もののけ、鬼、悪霊、妖怪。
夏になると毎年の恒例のように心霊番組が始まるし、遊園地にはお化け屋敷だってある。
さらには怖い話だって、学校や近所の公園にすら転がっているくらいだ。
そのくらい、身近と言えば身近な存在なのかもしれないけれど、実際に見たことは一度もないし、そんな得体の知れないもの、絶対に会いたくなんてない。
もっと言えば、そんな非科学的なものはこの世にいないものだと信じたい。
「そんなものいるわけがない。そう言いたいところだが……鬼やもののけ、妖怪はいるぞ。確実に、な」
お化けがいないのなら安心だ、と安堵のため息をついた途端、碧からは最悪の言葉が続いていった。
いるって言うだけならともかく『確実にいる』って一体何なんだよぅ!
「嘘! こっち来てから今まで、そんなのに会ったことないじゃん。いないいない! そんなの絶対にいない! またそうやって怖がらそうとしてるだけでしょ?」
むしろそうであってほしい。
というか、そうじゃないと困る。
ほとんど知らない遠い過去にタイムスリップしたとは言え、まだ日本だからと正気を保っていられたのに、ここで鬼だとか妖怪だとかいうワケわかんないのが出てきたら、私の弱いメンタルは間違いなくぽっきりと折れることだろう。
すがるように尋ねていく私を横目に、碧は感情を込めず淡々と語っていった。
「この国の負の元凶は……京。あそこは、生と死が入り混じる混沌の世界で、鬼やもののけがいたって何ら不思議じゃない」
なんたることだ。一番聞きたかったことが華麗にスル―されている。
どうやら『怖がらそうとしているのか?』と言う私の問いかけには、答えるほどの価値すらないみたい。
「お前は平安京を平和な都と思っているようだが、あそこは世辞にも美しい場所とは言えないところだ。精神持っていかれたくなかったら、とにかく気を強く持て、自分を見失うなよ」
「あ……うん。わかった」
あまりにも真剣に言ってくるもんだから思わず返事をしてしまったけれど、実際化け物に遭遇したらそんなアドバイスは何の役にも立たないような気がするのは私だけだろうか。
それに平安京ってきらびやかで優雅で、きらきらした世界じゃないのかな?
百人一首とか、和歌とか蹴毬とか、一日中遊んで暮らせる楽しい都だと思っていたのに、美しい場所とは言えないだなんて、変なの。
――・――・――・――
結構な距離を歩き、時刻は恐らく夕方。
空は茜色に染まり、少しずつ暗い影を落とし始めていく。
日が沈む頃に着けると碧は言っていたから、もしかしたらそろそろ京が近いのかもしれない。
「ん? あれ?」
夕焼け空を見ると、ふとあることが気になって鼻に神経を集中させていった。
「どうした?」
「なんか、臭くない?」
遠くの方から風に運ばれてきているのか、夏独特の湿った風が吹くたびに、何とも形容しがたい臭いが私の鼻孔に飛び込んでくる。
その問いに碧は呆れかえってしまったようで、馬鹿にするような目で私の方を見つめていった。
「は? だいぶ前から相当臭いぞ。俺はもう鼻が曲がってしまった。奈都は鼻の方も鈍いのか」
くそう。一言多いって言葉はこいつのためにあるような気がする。
まぁそれはともかくとして。
「これ一体何の臭いだろう……うぇ臭すぎて気持ち悪い」
何かが腐ったような悪臭が絶えず鼻を襲ってくる。
着物の袖で鼻を覆うけれど、臭いが強すぎてあまり役にたってはくれない。
歩みを進めていくごとに、だんだんと臭いがひどくなっていくところをみると、臭いはこの道の先からやって来ているようだ。
臭いの強さが増すのと同様に、水の流れる音が聞こえ始め、だんだんとその音は大きくなっていく。
川でも流れているんだろうか。
「おい、奈都」
突然歩みを止めた碧は神妙な顔で私を見つめている。
「さっき俺が言った言葉を覚えているか?」
さっきの言葉? それってもしかして……
「気を強く持て、自分を見失うなってやつ? どうして?」
「この先の光景はそれほど凄惨な地獄だから、だ。お前だけ目を閉じて通らせることも考えたが、気が変わった。お前に、平安京の姿を見てもらいたい。文字を知らぬだけで、後世へ伝えることも叶わない彼らの記憶。貴族の残した書に掻き消されてしまっていた、この時代に生きた者たちの想いを……未来に生きるお前の心に残したいんだ」
真剣な表情で私を見つめ、碧はゆっくりと歩みを進めていく。
「え……それってどういうこと?」
碧を追いかけていくと林を抜けたのか目の前が突然開けて、大きな川が現れ、私たちは歩みを止めていった。
否、足を止めざるを得なかった、と言う方が正しいかもしれない。
「ほら奈都、見てみろ。美しい都の裏の姿を」
そう言って彼が真っすぐ指差したその先には――――
――――この世とは思えぬほどの地獄があった。
「―――――ッ!」
あまりの惨状に声どころか悲鳴すら出ない。
辺りを包む、異様とも言える強烈な腐敗臭。
その臭いの元は、無残に放り出された……死体の山。
それはどこからどうみても全て、人間の形をしていた。
川岸を埋め尽くす死体の中には、腐り、貪られ、元が人間だったのかさえわからないようなものまで存在していて。
陸には野犬がうろつき、空にはカラスが飛び交って気味の悪い鳴き声を上げている。
彼らの狙いはきっと……
「ここまでになるとは世も末。水葬も追いつかぬということか」
隣にいるはずの碧の呟く声が、遠くに聞こえてくる。
「花に歌い、月を詠んで、恋に溺れる、極楽浄土のような平安京。だが一歩外に出れば、こうして隠しきれない裏が見える。一部の偽りの幸せを保つためにこうして屍となった者、他者から奪うことでしか生きることが出来なくなった元農民。全ての原因は――」
最早、碧の声は耳に入ってはこなかった。
凄惨な光景に手足は震え、吐き気がこみ上げる。
「何、これ……?」
ようやく絞り出せた声は叫び声にひどく似ていた。
「おい、奈都!」
碧は私の両肩に触れ、立ちつくしていた私の名を何度も何度も呼んでくる。
まるで、悪い夢から覚まそうとしているかのように。
でも、目の前の景色は……夢じゃ、ないんだ。
たちこめる酷い臭いが、嘲り笑うようなカラスの声が、両肩をつかむ碧の体温が、横たわる青白い人々の姿が、嫌でもそれを突き付けてくる。
こんな時代、私は知らない。
教わった記憶もない。
平安時代は貴族の時代。
ひらがなやお話、たくさんの遊びが生まれた楽しい時代。
そうじゃなかったの?
「何これ、どうして、どうして……っ、嫌ぁぁぁ!!」
感情の渦に巻き込まれ、耐えきれなくなった私は叫び声を上げた。目の前の視界も一気に狭まっていくと同時に、足の力も失くしていく。
「こうなるってわかってたはずなのに。お前を守りたかったはずなのに。すまない……」
完全に意識を失い倒れこむ直前、遥か遠くで碧の悲しげな声が聞こえたような、そんな気がした。




