歩いていこう
朝の光が、重く静かな闇の世界を消していく。
遠くに見える山の向こうから輝く太陽が登りきると同時に、にわとりの鳴き声が響き渡っていった。
「うぅ、眠……」
玄関の前で立ち尽くした私は、ごしごしと着物の袖で目をこする。
太陽の光が残酷なくらいに眩しく、爽やかな朝なはずなのに、そう思えないほど強烈に眠い。
時計がないから時間はわからないけれど、これはたぶん四時台だと私はふんでいる。
「ねぇ碧ー。やっぱり本気、だよね」
「本気だ。嘘をつく理由もないだろう。それに、元はと言えばお前がろくに話も聞かないままに承諾したのが悪いんじゃないか」
わらじの紐をきつく結びながら碧はそう話していった。
「そりゃ、私が悪かったけどさぁ。京都までって、考えただけでも気が遠くなるよ」
「お前な……お守を任され、京へ行かされ、旅のためにお前の着物を買わされた俺の身にもなってみろ」
「うっ、返す言葉もありません」
なぜ私たちがこんなに朝早くから起きているのかと言うと、京都まで書類を届けるという役目を郡司である伊助さんから任命されたから。
私たちはその役目を果たすため、今日これから歩いて京の都へと向かうことになる。
碧は京に歩いて行ったことがあるみたいで『酉の刻には着くし、そう遠くはない』と言っていたけれど……天神様の本によると酉の刻って午後五時から七時までの間のことみたいなんだよね。
十二時間なんて途方もない時間を歩いたことはないし、馬車の牛バージョンみたいなのは乗れないのか聞いてみたけれど、碧に言わせれば牛車は貴族の乗り物で、庶民が乗るものではないそうだ。
あんなにドラマや漫画ではよく出てきているのに、貧乏人には乗れないと宣言されるなんて、どの時代でもお金がものをいうことを突き付けられているようで何だか悔しい。
この地域では偉い人と思われる郡司の伊助さんも、牛車には人件費や維持費その他もろもろお金がかかるから、と手放したみたいだから今回の旅では借りれないし、碧はそもそも伊助さんからスカウトされた庶民上がりのお役人なわけで、そんなお金のかかるものを持っているわけがない。
体力に自信のない私は、せめて馬を借りて行くとか……と碧に提案したけれど、歩いていける距離で馬の管理に金を使うのはばかばかしい、と一蹴されてしまった。
確かにちょっと考えてみれば、馬は生き物だし、餌代とか、かかるかわからないけれど馬小屋代とか、その他にもお金がかかるのだろう。
それに、ワンピースじゃ目立つからと、私にこの桃色の着物(小袖と言うらしい)と深緑色の腰布(褶と言うらしい)を買ってくれたわけで。
人の家にタダ飯食らいで居座って。
着物代を払わせて。
なんやかんやとわがままを言い。
行かなくてよかったはずの京都にまで連れ出そうとしている。
あぁ、これって最悪な居候だよね。
もし私が碧の立場なら、そんなやつとっくに追い出してるわ。
人権が法律で保障されてるわけでもなく、死んでも文句が言えないようなこの時代。
なんだかんだでこうやって面倒を見てくれるから生きていられるのに、私ときたら……
「ごめんなさい……私、迷惑掛けてばっかだし、またわがまま言った。ちゃんと頑張るから、一緒に京までお願いします」
反省した私はしょんぼりとうつむき、そして深々と頭を下げていった。
何でも碧に頼って、泣き言ばっかり言ってちゃだめだ。
『奈都は出来ないわけじゃない、やろうとしなかっただけだ』って碧も言ってくれたじゃないか。
これからは出来ないって決めつけずに、やってみようって決めたばかりじゃないか。
碧は意地悪だし上から目線だけど、冷徹な人じゃない。
ちゃんと誠実に謝って話していけば、気持ちは伝わるはず。
そう思っていたのに、上から降ってきた言葉は……
「どうしたんだ、珍しい。奈都にしてはずいぶんと殊勝だな。今日は雨か?」
その言葉に顔を上げると、碧は口元を左右非対称に上げて、にやりと楽しそうに笑っていて。
せっかく人が本気で謝っているというのに、こいつめ!
「またそうやって私を子どもだと思って、からかってるんでしょ、もう!」
いっそのこと子どもみたいに泣き喚いてやろうか、こんにゃろう。
「さぁ、どーだかね。それと、頑張るのは結構だが女子の足にとってはもしかしたら遠く、きついように感じるかもしれない。もし疲れたら我慢しないでちゃんと言えよ」
わらじの紐を結び終わったようで、碧は立ち上がり真顔でそう話していった。
……やっぱり碧はずるい。
ここで『童の足には』って言ってくれれば、文句の一つや二つ言えるけど、ちゃんと女の子扱いされて心配してもらえているのかと思うと何だかこそばゆくて、何も言えなくなっちゃうじゃないか。
朝の光に輪郭を照らされている碧の背中に向かって、独り言のように声をかける。
「ねぇ、碧ってさ」
「ん、何だ?」
振り返る碧の表情は光で眩しすぎてよく見えない。
「伊助さん以上に女の子をたらしこむ才能あるよ」
「……は? どういうことだ」
きっとまた眉を寄せて不機嫌なしわが刻まれているんだろう。
眩しくてよく見えなくても、どんな顔をしているのかすぐに想像ついてしまう。
それが何だか面白くて、つい笑ってしまう。
「えへへ、内緒!」
そう言って玄関を飛び出した私は、逃げるように草木の茂る野へと駆けだしていった。
静かな朝の世界に軽快な足音が響いていく。
碧が「待て!」とか「初めからそんな飛ばすな阿呆!」とかいろいろ言っていたけれど、聞こえないふりをしてひたすら走る。
嬉しさと悲しさと、ほんのちょっとの苦しさが胸の中で渦巻きだしているのが、自分でもどうしてなのかわからなくて。
とにかく、こんなもやもやした気持ちは早くふっ切りたかったんだ。
だけど、自分のことがよくわからない代わりに、たくさんの女の子たちが碧に思いを寄せる理由。それだけは何となくわかったような気がした。
碧は自分にも他人にも厳しいし、きついことだって平気で言うけれど、本当は誰よりも……優しくて、努力家で。
気づけば、いつもその優しさに救われている自分がいる。
前を歩く碧の背中を見るたびに、負けないように頑張りたいと思える自分がいる。
平安時代の女の子たちは碧のそういうところを好きになったのかな。
もしも碧が平成の世に生まれていたら、私も碧のことを好きになったのかな。
そう思った瞬間途端にぎゅう、と胸が締め付けられるように苦しくなった。
――どんなに仲良くなったって
――どんなに現代の技術が進歩したって
「奈都! いい加減、止まれ」
大声で私の名を呼ぶ声に、私はぴたりと足を止めて碧の方に向かって振り返る。
――一度、現代へ帰ってしまったら、きっとここには……碧のそばにはもう戻れない。
ふと思いだしてしまったんだ。
私は平成の時代に生きていて、碧はこの平安の時代に生きている。
いつまでこうやって一緒にいられるのかもわからないし、お別れしなきゃいけない時が来る。
「碧ーーーっ! 遅いよ、早く早く!」
渦巻く想いを押し込めて、遠くにいる碧に向かってありったけの声で名前を呼んだ。
存在を確かめるように。
二つの時間を強く繋ぎとめようとするように。
いつかは現代に帰りたい。
だけどまだ……碧と一緒にいたいから。
碧のことをもっともっと知りたいから。
「体力に自信なさそうにしてたわりには、体力馬鹿だな……」
ようやく追いついてきた碧に向かい、精一杯笑う。
「馬鹿だなんて失礼だなぁ。もう、ほら呆れた顔しないの! 菅原奈都、郡司秘書の碧、いざ京へ参らん!」




