夜の問答
「碧、何してるの? もうそろそろ寝る時間だよ」
台所の甕の前で腕を組み考え込んでいる碧に声をかけた。
碧は、床に置いてある桶を拾い上げて私に見せていく。
「あぁ、奈都か。いや、この桶で井戸の水を汲んできた時、一体何往復すればこっちの甕が満たされるのだろうかと、そう思ってな。奈都が教えてくれた、数学とやらで求められぬだろうか?」
「そう言われるとちょっと気になるかも。確かに、残り何回ってわかった方が、今度水汲む時にいいしね。一緒に考えればたぶん出来ると思うから、昼間の数式で計算してみよう!」
それからは、碧と一緒に公式を当てはめ、答えを導き出していって。
テンションの上がった私たちは日も暮れているのに、答え合わせをするために井戸と甕の間を何度も往復していった。
「すごい! 往復の数、ぴったり当たってる!」
「あぁ、数学というものはすごいな。未来はこんなにも知識に溢れているのか。なんだか俺も未来に行ってみたくなったよ」
にこりと微笑む碧。
眉間のしわがなくなった、明るくて柔らかい笑顔が少年みたいでとても可愛い。
未来に行ってみたい、か。
ちょっと忘れかけていたけど、ここは平成の世じゃない。平安時代なんだよね。
「ね、私も未来に帰りたい」
家族も友達も皆向こうにいて、私だけがこんなところに飛ばされて……。
無事に帰るには一体どうすればいいんだろう。
ぽつりと呟いてうつむいた私を、碧は静かに見つめていたのだった。
――・――・――・――
「そう言えば、奈都。俺は明日仕事に向かうが、お前はどうする?」
灯りがない部屋の隅の方で碧の声が響く。
そういや碧は、仕事をしているって言ってたっけ。
確か郡司っていう役人の、秘書兼お手伝いみたいなことをしてるって言っていた気がする。
「どうするって言われても……ついてったら邪魔?」
「ああ。邪魔だろうな、確実に」
……結局つまり、留守番しか私に出来ることはないし、碧も私を連れていくつもりはないってことか。
だったら、どうするかなんて聞かないでよね。
真っ暗で何も見えてないことをいいことに、碧の寝ている方向に向かって口パクで『やなやつ!』と返していく。
「いや、邪魔とも言い切れんか。お前文字読めるみたいだしな」
私の心の中の呟きが聞こえてしまったのか、碧は絶妙なタイミングで言葉を返してきた。
内心ぎくりとしてしまう。
「え、文字なんて皆読めるんじゃないの?」
「いや、文字は貴族や寺院の人間、その他限られた者しか読めぬ。だから、未来の世では誰もが文字を読めると聞いて俺は心底驚いた」
文字が読めないなんてことあるんだ。
それってすごく不便なんじゃないのかな。
それに気にかかるのは……
「碧はもともと貴族の出身なの?」
「俺は僧侶に拾われた。だからこうやって文字も読めるし、上手い具合に郡衙での仕事を貰うことが出来ているんだ」
「じゃあ、住職さんは恩人だね」
「まぁ、そういうことになるだろうな。だが、本当の恩人はまた別に……って俺の話はいい。話がずれたが奈都、文字が読めれば俺の補佐として仕事をやれるかもしれん」
碧の補佐、か。
一人で留守番するよりも楽しそうだけど……
「勝手に決めていいの? それに、どこから来たのかわかんない人を雇ってくれるかなぁ?」
「普通に考えたら無理だろうが、郡司、藤原伊助なら可能かもしれない。伊助はあの藤原氏の一人で、元々は国司だったのが、変わり者であるのがたたって降格された。伊助が国司だった時、権力面でも金銭面でも何の後ろ盾もない俺を在庁官人の役割として選んでくれたんだ」
そう話す碧の表情はどこか柔らかくて、なんだか優しく見えた。
コネなんかよりも、自分の能力をかってもらえたことが相当嬉しかったんだろう。
「あいつは世襲制の貴族による政をよしとしていない。能力が認められれば、雇われる可能性もある」
「伊助さんかぁ、なんかすごい人だね。確か、藤原氏って天皇の裏で政治の実権を握ってきた一族でしょ? そんな一族の人が能力重視で、貴族の政治を嫌うなんて」
「ほう、お前何も知らぬと思っていたのだが、案外やるな」
やったね、あの碧に知識のことで初めて褒められた!
「えへへ」
得意げに笑う。
確か、藤原氏の摂関政治ってやつだ。
この間、参考書で勉強したばっかりだし、覚えてて良かった。
「だが……伊助がすごい人、か。あまり期待を寄せず、ろくでなしに会うつもりでいた方がいい」
深い溜息と気の乗らない声が聞こえてきた。
「ろくでなしって……郡司って役職、すごいんじゃないの?」
以前、碧に聞いた話をまとめると、私の中では『郡司は市長みたいなもんだ』って結論が出たんだけど。
「お前はあいつを知らぬからそんなことが言えるんだ。まぁ、伊助のことは好きに思っておけ。俺は忠告はしたぞ。明日は早い、もう休もう」
「うん、わかった。おやすみなさい」
碧の様子が少し気になったけれど、掛け布団代わりの着物を肩まで引き寄せて、にこりと笑う。
留守番にならずに、明日も碧と一緒にいられるのが嬉しい。
うん?
何で『碧と一緒にいられる』のが嬉しい?
あんな偉そうな上から目線の人と一緒にいられて、嬉しいか……?
まぁ、留守番するより、碧について外を回った方が楽しいってことかな。
心の中でそんな問答を何回か繰り返して、気が付いたら深い眠りへと落ちていったのだった。




