七粒と一片
横浜は雪に見舞われました・・・おおっ積ってる、積っている。
早々に外出は諦め、炬燵の中でノートパソコンに向かう、私。
傍らには湯気の立つお茶の入ったマグ、小玉だけど甘い蜜柑。
そんな至福の環境に籠っているのは雪柳だけではない、はず。
まぁ、エルミヤ~の皆さんは大変なことになってますけどね。
マルモア王宮の東殿。
この国で2番目に高貴な人物が住まうその場所は、10年から王女のものであった。
己の死期を悟った先王が王妃を女王に、王女を世継ぎにと定めたのだ。
統治に長けているとは到底言えぬ王妃が即位し、当時10歳の王女が世継ぎになる
ことへの反発は当然あった。
それを抑えこんだのは先王の懐刀となっていたアガイル将軍…現宰相であった。
先王と現女王との間に生まれた唯一の御子として王女は幼くして王宮東殿の女主人
となり、己を次代の君主と信じて生きてきた。
もっとも表ではちやほやとしながらも、裏ではまだ子どもと侮って口さがないことを
言う宮廷人もいる。
王女の中でいつしか…自分が先王の実子ではないかもしれないと疑いが起こり、
やがてはそれが確信に変わる。
それでも王女は、さほど動揺することなかった。
なぜなら女王の娘であることは真実であり、女王を愛する宰相…マルモア最強の男に
よって母も自分も守護されていると信じていたからだ。
唯一、王女を苛立たせた存在が、辺境領主代理のサヤであった。
反逆者の孫だが、同時に王家の血を引く娘。
政略結婚とはいえど、紛う方なき宰相の娘。
彼女を厭い、蔑んできたのは、或いは真実を封印して生きるための、
自己防衛本能に根ざすものだったのかもしれない。
幸せだった王女の世界が今、足元から崩れてゆく。
王女は唯一の御子ではなく、半分だけだが血の繋がった兄がいた。
彼女に手酷い仕打ちをした第五枢機卿アイオン。
彼こそが先王と女王の唯一の嫡子であった。
そして“神の使者”としてマルモア主神の恩寵を受けている。
宰相は女王の“恋人”ではなく、愛も忠誠も偽りでしかなかった。
彼は亡き先王のために、しばらくの間、王家の延命を図ってくれたに過ぎなかった。
娘のサヤが正式な辺境伯爵として世に認められるや、「もういい」と女王も王女も
…簡単に切り捨てた。
何よりも許せないのは、やはりサヤのこと。
王女を苦境に追いやっておきながら、あの娘は王都中から注目を浴びている。
憎い。どうすれば、あの娘を惨めな身の上に追い落としてやることができるのか。
「おい、物騒なことを考えるなよ。
サヤに手を出せば、宰相閣下は何の躊躇もなく、お前の首を狩りにかかるぞ」
敬語をすっかり拭い去って、カレント少将が警告を飛ばす。
彼は宰相邸から王女を東殿に連れ帰り、そのまま部下を指揮して王宮警備に付いていた。
「わたくしは王女よ…」
そう言いながらも、以前のような覇気はない。
「その王女という身分すら危うくなっていることを自覚しろ。
殊勝な態度を示せば、神殿送りにも辺境送りにもならず、王都で静かに暮らせるだろう」
レンは懇々と現実を諭す。
「わたくしが東殿を出るとしたら、行き先は正殿だけよ」
しかし王女は頑なだ。
世継ぎの王女として東殿に入ったのだ。女王として正殿に入る道しか自分にはない。
…それが彼女の考えだった。
レンは処置なしという風に頭を振った。女王の退位は時間の問題だ。
確かに、“何事も起こらなければ”、王女がそのまま即位することもありうるだろう。
世間的に世継ぎと認められているのは王女なのだから。
だが、“事”を起こす気満々の厄介な男…第五枢機卿がいる。
次代を継ぐのが、王女か第五枢機卿か、はたまた辺境女伯かと問われれば、
レンの答えは最初から決まっている。
自分のことしか考えていない王女。
サヤのことしか考えていないイオ。
…どちらも執政者として失格だろう。
王女が何の後ろ立てもなく女王になろうものなら、復権を狙う旧貴族層に早晩
喰われるだろう。
イオに至っては邪魔な連中を神の名の下に嬉々として殲滅してゆくだろう。
となれば、希望はサヤだけなのだ。
レンはサヤを説得してマルモア女王に据える心づもりだった。
それが一番“丸く収まる”…流血を避ける最も賢い選択肢だった。
もちろん、サヤが即位など夢にも思っていないことは分かっている。
サヤがエルミヤのことしか考えていないことも分かっている。
そして、彼女の心を一番に占めているのが自分でないことも…分かっている!
だが、サヤがエルミヤの地を愛する心をマルモア全土に向けてくれるならば、
理想の為政者が誕生するだろう。
彼女が一度決心すれば、宰相は後見を惜しまないだろうし、第五枢機卿は賛同
しないまでも、“新女王”に弓引くことはないだろう。
そうしてレン自身はといえば、権力への野心はないものの、女王サヤの隣りで
一番に彼女を支える者でありたいと願う。
“神の使者”であるイオや“魂の片割れ(ディヴァン)”であるシイが煩く寄ってくるだろうが、
もちろん負けるつもりはない。
「貴方がわたくしを気にかけるのは、わたくしが姪かもしれないから?」
王女の問いにレンは我に返った。
「現在の家には養子で入ったと聞いているわ。血の繋がらない兄にそこまで
義理だてする必要があるの?」
「血の繋がりはなくとも、養父母も兄も本当の家族だった。とくに兄は、幼くして
実父母を亡くした俺にとても良くしてくれた」
実家も名家は名家であったが没落しており、実父母が事故死した時、誰もがレンを
引き取ることを躊躇った。それを救ったのが、遠縁…といってもほとんど他人の
養家であり、人見知りの坊やであったレンを辛抱強く世話したのが養兄だったのだ。
「俺は先王も女王も敬うことはできない。
先王は…兄の抱いていた王に対する忠誠と女王に対する敬愛とを利用した。
自分で女王の相手をするよう命じておきながら、後に王家の仇となることを
怖れ毒薬を下賜した。
女王は…正気を失っても生きながらえた兄を十年、ただの一度も見舞うことは
なかった。たぶん、“4人”のことなど思い出しもしないのだろう」
「それでは、貴方も王家を憎んでいるの?女王やわたくしに失脚して嬉しいの?」
貴方“も”と問うたのは第五枢機卿のことがあるからだ。
しかし、レンは首を横に振った。
「正気を失った兄が、それでも時々うわ言のように呟くのは“王妃さまと小さな王女
さまをお守りするのだ”ということと“レン、代わりに頼む”ということだった。
俺は、兄の忘れ形見かもしれないお前に死んで欲しくないし、もうこれ以上…
王家や王家の周りで血が流れるのは嫌だ」
「レン…」
「…少し警備を抜ける。誰が何を仕掛けてくるか分からない状況だから、絶対に
東殿を出るな。ここなら、俺の配下に守らせているから安全だ」
「待って!」
退出しようとした少将を慌てて王女は引き留めた。
女王も宰相も枢機卿も、嘘ばかりの人たちの中で、レンだけは…真実、自分を
心配してくれている、そのことが分かって。
少しだけでも、感謝の気持ちを表したいと王女は思ってしまった。
「もうちょっとだけ居て。そ、そうね、お茶でも一杯飲んで行って!」
侍女頭が、飲み物を用意して入ってきたので、王女はそれに便乗することにした。
「いや、俺は…」
断ったレンの前に、王女は慌てて湯気の立ったティーカップを差し出した。
それを受け取るつもりはなかったのだが、次の言葉で気持ちが変わる。
「あの、その、いろいろと、ありがとう。お、じ…さま?」
最後の“叔父様”の下りはほとんど聞き取れなかった。
それでも王女が謝意をきちんと表すのは初めてのことで、それだけでも驚異的なことだ。
真っ赤になって照れた顔をまじまじと見てしまい、レンは内心の動揺を隠すために
慌ててお茶を口に含んだ。
香草と蜂蜜を利かせた紅茶は喉に優しく、疲れを癒してくれる。
少将は初めて可愛いかもと思ってしまった“姪”を見つめたまま、ごくごくと茶を
飲み干した。
「それでは」
ティーカップを侍女頭に戻して、踵を返したレンは、しかし扉まで行きつけなかった。
ぐらりと視界が反転し、両膝が崩れ落ちたのだ。
「レン!」
驚いて王女は少将の元に駆け寄った。息はしているものの、ぐったりして意識がない。
「お前…お茶に何を入れたの?」
古参の侍女に喰ってかかる。
それには答えず、侍女は手を叩くと、従者を数名呼び寄せて少将を運ばせた
…信じがたいことに王女の寝室へと。
侍女の指示するままに、少将は寝台の中央に横たえられ、衣服を緩められる。
そうして従者たちが再び部屋から消えるまで、侍女頭は一言も声を発しなかった。
「何を考えているの?」
重ねて尋ねる王女の声には怯えが交じっていた。
「通常の3倍量を用いましたが、少将殿は軍人で薬に対する耐性もあるでしょうから、
このままであれば程なく目を覚まされるでしょう」
「だから、何でこんなことを!」
訳がわからない。少将に一服盛って、寝台に運んで、どうしようというのだ。
これではまるで…と、その可能性に思い至って、王女は呆然とする。
侍女頭が彼女にやらせようとしていることは。
「お前、まさか…」
「別の薬もご用意いたしました。こちらを首筋の血管に注入しますと
…お目覚めになった少将殿はけっして王女さまを拒むことはないでしょう」
「だから何の薬よ、それは!」
「興奮剤に意識をやや混濁させる成分を混ぜてあります」
しれっと侍女頭は答える。動揺する王女に対してこちらは冷静そのものだ。
「わたくしに少将を誘惑しろと?」
「単に誘惑するだけでは足りません。有体に申しますと、少将殿を他の娘に取られぬ
ように、しっかり既成事実をお作りなさいませ。それしか、王女さまが即位する道は
ございません。彼を何としても味方につけねば。お分かりですね?」
「で、でも、こんなやり方は…!」
確かに、カレント少将が夫となれば、イオやサヤを退け、王女が即位する可能性も
出てくる。名家出身であり、何より、マルモア国軍に力のあるレンを味方にすることが
できるならば。
「どうするかは、王女さまにお任せいたします」
そう言いながらも、侍女頭は少将の衣服を脱がせてゆく。
「やめて!」
その鍛え上げられた半裸の姿が目に映り、王女は慌てて顔を背けた。
夜会など華やかな場では若く、見目麗しい文官や武官を取り巻きとすることも
あったが、彼女はもともと奔放な性質ではない。
王家の慣例を守って、婚姻までは純潔を守る予定であったのに。
こんな…儀式はおろか、合意もないままに肌を合わせるなど。
「少将が目覚める前に投薬を。
私はこれで失礼いたしますが、王女さまの賢明なる ご決断を願うばかりです」
王女の知らぬことであったが、侍女頭の夫もまた女王の相手を務めた“4人”の
一人であり、先王によって闇に葬られていた。
その心中は複雑だ。
女王と王女のせいで彼女の夫は死んだのだ。悔しいに決まっている。
けれど、女王と王女が消えてしまえば彼女の夫の死は無駄になる。
(王女さま、貴女は何をどう選ぶのか…)
自分のできない決断を侍女頭は長年仕えてきた“偽りの主”に託すことにしたのだ。
王女は前後不覚で横たわるカレント少将の傍らに腰を下ろし、呆然とした。
侍女頭の指示は明確だ。レンが意識を取り戻す前に、新たな薬を注入し、正常な判断
能力を奪い、興奮させて王女と…既成事実を作る。
この手は宰相や枢機卿相手なら使えないが、レンならば有効となるだろう。
大好きな兄の忘れ形見に、不本意でも手を出したとなれば、責任を取るだろうから。
「レン…わたくしの、血の繋がらない叔父さま」
剥き出しとなった胸にそっと手を添わせて王女は呟いた。
軍で鍛えられた体躯。明るい金髪。今は固く閉ざされているが空色をした双眸。
アガイル宰相の信用を得、若くして少将となった男は王子のいないマルモア宮廷で
王子のような存在だった。
「ねぇ、レン?貴方はわたくしの名前を知っている?
誰もわたくしを名前で呼んでくれないの。“王女さま”ではなく、いつか貴方は
わたくしを名前で呼んでくれる時が来るかしら?」
…いいえ、きっとそんな日は来ない。
自分はこれからこの人を卑怯な手段で罠に嵌めるのだから。
「貴方がサヤを思っていてもいい。“王女”に必要なのは貴方の心ではない、
貴方の力だから。
それでも、いいの。それでいいから、お願い、わたくしの側に居て。
お願い、貴方は離れて行かないで」
飾り櫛を外し、先王ともレンの兄を含む“4人”とも同じ赤茶けた髪を腰に垂らす。
そうして、帯も解き、一糸まとわぬ姿になってゆく。
最後に侍女頭が残して行った薬を手に取ると、王女の目からは大粒の涙が零れた。
*** *** *** *** ***
主神殿の地下らしい、ということ以外は全く手掛かりなしであった。
入って来たからには出て行く所があるはずなのに、窓も扉も見当たらない。
一瞬の隙をついて、アイオンは壁に溶け込むように消え、後には何も残らなかった。
さすがに高位の職者を軟禁する場所と感心すべきか、豪奢だが隙がない。
人工灯は明るく、温度も湿度も整えられており、浴室ではお湯も使える。
うっかりもう一眠りしようかと思いたくなる快適さだが、こうしてはいられない。
「ああ、もう、どうやって出たらいいのっ!」
苛々してサヤは癇癪を起こした。気ばかり焦る割に身体は思うように動かない。
確かに合意の上で、アイオンの恋情を受けとめたつもりだが、体力をごっそりもって
いかれた。おまけにエルミヤのために身を差し出したと誤解され、気力までごっそり
もっていかれた。
ささやかな乙女心はもうボロボロだ。
「シイ、どうしちゃったの!」
一層不安になるのは、シイがこの段階になってもまだ姿を見せないことだった。
目白を“お目付け役”にしていたのだ。
人外の力を持つ彼は鳥の目を通して遠くの物を見ることができる。
サヤの異変をすぐに察知したはずだ。
主神殿に居ることは分かっているのに、彼が来ないということは。
(何か、あった…?)
一向に救出に来ない彼に憤っているのではない。むしろ彼のことが心配なのだ。
隠れ家を出てから、宰相邸、主神殿と回り、どれほど時間が経っているのか。
意識を失っていたこともあり、今が何時なのか判然としない。
自分が不在にしている間に、何か不穏な動きがあったのではと焦燥に駆られる。
ここでぐずぐずしている間に、イオが神殿と王宮を掌握し、神王座に上って
しまったら、もうとり返しがつかない。
それでもって「神王妃は君だ」とか告げられたら、敵わない。
「まったく、何が“枢機卿でも神の使者でもない男なぞ何の価値もない”よ。
勝手に決めつけないで欲しいわ!」
腹が立つ。
枢機卿でも神の使者でもない、ただのイオこそサヤの欲しいものなのに。
全然、通じてない。
全然、あの男はサヤの気持ちが分かっていない。
自分がどんな気持ちで、“初めて”を捧げたのか、理解しない上に誤解した。
これはもうぶん殴ってやらないことには気が済まない。
「ああ、もう、どうやったら出られるのよ…!」
天井を仰いで絶叫したところで、側面の壁が崩れた。
えっと首を傾げたところでシイの緑がかった黒髪が飛び込んできた。
「サヤっ!無事かっ!」
「シイっ」
走り寄ろうとしたところで、はたっとサヤの動きが止まった。
意識して忘れたふりをしていたが、実は、着ていたはずの服がどうしても見つからず、
寝台にあった薄物を巻き付けただけの姿だったのだ。
この格好で「無事か」問われても。
躊躇っている間に、シイの方から抱きしめられた。息もつかぬほど強く。
「あいつ…殺してやる」
耳元でシイが物騒な発言が聞こえた。
「殺しちゃだめ。報復なら自分でするから」
「あいつが、サーヤに手を出したことは分かっている。
僕とサヤのディヴァンとしての絆をイオは叩き切った。こんなやり方…許せない」
シイの整った顔立ちが憤怒に染まっていた。
その勢いに何も返せずにいるサヤを彼は抱き上げ、破壊した壁を潜り抜けて
狭い通路へと出る。
ちらりとサヴァイラ第二枢機卿の姿が垣間見えたようだが、彼女は無言のまま、
早く行けとばかり片手を振っていた。
「シイ、私は…」
無理やりに奪われた訳ではないことはきちんと説明しなければならなかった。
イオへの思いを断ち切れなかったことを打ち明けなければならなかった。
例えそれがどれほどシイの心を傷つけたとしても、隠すことはできない。
「少し黙っていて」
しかし、先を制されてサヤは口を閉ざすしかなかった。
シイが彼女を抱いたまま、ほとんど走り抜けるようにして辿りついたのは
神殿巫女のための祈祷準備室であった。
粗末な木製の椅子にそっとサヤを下ろし、彼は、といえば壁に備え付けられた棚を
勝手に暴いて、要領よく衣服やら靴やらを引っ張りだしてゆく。
「…手慣れているわね」
サヤが思わずそう漏らしたのは無理からぬことであった。
「以前にも忍びこんだことがあるからね。これを頭から被って着て、帯はこれ。
靴下に靴。あとは…こっちの外套を羽織って。その格好じゃ外を歩けないでしょ」
さすがに女主人のための衣装選び(コーディネート)は熟達している。
サヤがずぼらであった分、従者であったシイの服装感覚は
磨き抜かれて行ったのでだ。
「う、うん。ありがとう、シイ」
下着まで差し出されては、辺境伯としての威厳も何もない。
相手が紳士的に背を向けている内に、さっさとサヤは身支度を整えた。
その際に自分の肩や胸に幾つも朱い花が散っていることに気づくも、声を上げることも
できないで身悶えするしかない。
(イオの奴、馬鹿、馬鹿、何てことしてくれたのよ…!)
一発殴るだけじゃ気が済まない。これはもう、ボコボコにしてやらねば。
「準備はできた?これから宰相邸に送るから」
「宰相邸…?なぜ?」
てっきりナナツたちが待つ隠れ家に戻るのかと思っていた。
或いは、王都にあるエルミヤ出張所に赴いて、今後の対策を練ることになるのかと。
「何が…あったの?」
サヤの問いにシイは沈黙を返した。
「シイ!」
たまりかねて、その固く握りしめられた手を取って叫ぶ。
何か良くないことが起こったのだ。
「隠れ家と出張所が同時に急襲された。ブワンとエリゼの食堂もやられた。
突然無頼の徒が押しかけてきて、家の中を滅茶苦茶に荒らされ、刃向う者たちを
容赦なく殴ったり蹴ったりした…やったのは副宰相の雇った連中だと思う」
さすがに個人的な意趣返しに正規軍は動かせなかったようだ。
しかも、サヤが不在にしているところを狙ったのは宰相の動向を気にしてのことか。
「ヤクザな闘争になったということは、ナナツが…」
「手下を駆使して、それはもう愉しそうに反撃し、騒ぎが一層大きくなった」
「やっぱり」
マルモア正規軍に正面切って盾突けば謀叛を疑われてしまうので、ナナツも慎重に
なるはずだ。しかし、無頼の徒が相手となれば、遠慮もない。
元極道の…げふん、げふん、ナナツの血が騒ぐのは致し方ないことであった。
「それで被害は?」
「負傷者が十数名。中に骨折した者もいるが、いずれも命に別条はない。
安全をとって全員宰相邸に避難させている」
隠れ家や出張所が破壊されたのは痛手だが、とりあえず人死にが出なかったことに
安堵する。どうりでシイが来るのも遅かったはず…と納得しかけて、ん?となる。
シイがエルミヤの“同僚”のために本来の主人を後回しにするはずはないのだ。
「騒ぎを抜け出して、直ぐにサヤの所へ駆けつけようとしたのだけど、妨害が入った。
神殿お抱えの“掃除屋”だと思う。
さすがにあっちも専門だから、こちらも手加減できなかったよ?」
つまりはイオが放った刺客に阻まれ、暗闘になったということで。
相手が何人かは知らないが、たぶん今はもう息をしていないか、虫の息か。
サヤを守るためにシイは自らの手を汚してゆく。そのことが堪らなく辛かった。
「そんな顔をしないで、サーヤ」
温かい手が頬に添えられた。優しいかに見えた瞳は突然真剣味を帯びる。
「教えて、サーヤ。イオが神王になったら、神王妃として隣りに立つ気はあるの?」
「それは絶対にないっ!
神王妃なんて絶対ならないし、そもそもイオを神王になんてさせない」
いっそ清々しいほどに、きっぱりと否定する。
「それじゃあ、レンを夫に迎えて、マルモア女王になる気はあるの?」
「あるわけないでしょ!レンとは結婚しないし、女王になる気は全くないわ」
レンのことは嫌いじゃない。というか、利用したくないと思うくらいには好きだ。
将来飲み友達としは歓迎するが…彼の力を頼んで、女王になるなど、アリエナイ。
「なら現女王が退位したら…どうするつもり?」
「どうしもしないわ。王国の将来を考えるのは私の役目ではないもの。
世継ぎの王女さまがおはしますのだから、予定通り彼女が担えば良いだけの話よ」
「それは随分はまた随分と…」
「なあに?王女さまが悪政を布こうが、それによって王国が傾こうが知ったこと
ではないわ。私はせいぜい混乱の火がエルミヤに飛ばないよう努めるだけよ。
神王妃だの、女王だの勝手なことを言わないで欲しいわ。
私はエルミヤを出るつもりはない。辺境伯以上の権力を望むことは決してない」
もしも…将来、王家がエルミヤを弾圧するようなことがあれば、マルモアからの独立も
視野に入れなければならないかもしれない。けれども、王家が辺境を
放っておいてくれる限りは、サヤも敢えて反旗を翻すつもりはなかった。
「だけど現実には、第五枢機卿が神兵を動かして、女王に譲位を迫るつもりだ。
女王を守るために、副宰相がマルモア軍を動かしたら衝突は避けられない。
宰相閣下は動かず高みの見物を決め込んでいるし、レン少将が武力行使を抑制して
いるから軍は内部で割れている。全軍が一丸となって動けば神殿が劣勢になるけど
今なら…恐らく拮抗している」
かなり危うい状態ということだ。
五年前も王都は混乱したというが、今回はそれを上回ることになるだろう。
王家の象徴であった“優しい女王さま”の虚構が崩れ、“神の使者”が動く。
「イオを説得するわ。神王なんて愚かな考えは捨てさせなくては」
「それができるの、サーヤ?貴女は一度失敗しているんだよ」
シイの指摘が心に刺さる。そう、彼女はイオを引き留めることに失敗しているのだ。
それでも、ここで諦める訳にはいかない。
神兵と軍の衝突を防いで、イオの野望を挫くのは、他ならぬ彼女でなければならない。
「貴女が心から願うなら、僕は一晩、神殿と国軍の動きを封じる」
「シイ…」
問わずとも分かる。分かってしまう。
シイがまたサヤのために人外の力を揮おうとしている。
しかも今度は鳥相手ではなく、人相手にだ。
「一晩くらいなら王都に集う軍事勢力を強制的に眠らせることができる…と思う。
僕の命を引き換えにすれば」
「なに馬鹿言ってるのよ!ダメに決まってるでしょ。シイの命を犠牲にするなんて、
ありえないわ。それくらいなら、王都が血まみれになった方がましよ!」
要はエルミヤに関わる人たちだけを無事に避難させれば良いだけのことだ。
あとは神殿も国軍も好きなだけ殺し合えば良い。
そうやって勢力を削ぎ合えばエルミヤにとって御の字だ。
「でも、ここで王都を見捨てたらサヤはきっと後悔する。
エルミヤであれ、王都であれ、苦しむ民がいれば貴女はきっと無視できなくなる」
「だからと言って、シイを失う訳にはいかないわ。そんなの…耐えられない。
貴方のいないエルミヤを守るなんて…私にはできない」
その答えは自然に落ちてきた。
異種族の従者で秘書官である彼は、彼女にとってエルミヤの分身でもあるのだ。
例えば、父親はいなくとも、恋人と別れても、サヤは生きていける。
けれど当り前に、呼吸をするように、側に在り続けたシイを失うのは。
二人はどちらからともなく互いを抱きしめ合った。
「僕のディヴァン。貴女は…魂を分けてくれながら、心を分けてはくれなかった。
僕が純血であったら、この人外の力で貴女の心を縛ることもできただろうけど、
生憎と残酷で貪欲な人間どもの血も混じってしまっている。
僕には他の男を愛する貴女の心を止める術がない」
「私は…その残酷で貪欲な人間の一人だ。
イオを愛しているのに、シイにずっと側に居て欲しいと願っている。
この手を離したくない。ましてやマルモアの犠牲にするなぞ絶対に嫌だ」
「正直言うと、僕も、僕の居ない世界にサーヤを残してゆきたくはないんだ。
少将にも枢機卿にも安心して貴女を任せることはできないから。
そこで、もう一つ提案がある」
両の腕で優しく熱く、大切な“お嬢さま”を囲いながらシイはとんでもないことを
囁いた。それはサヤが“魂の片割れ(ディヴァン)”であればこそ可能なこと。
イオによって断ち切られた絆をもう一度結び直して、可能となること。
「貴女の命を…半分だけ、僕にいただけませんか?」
サヤはシイを見つめたまま、息を飲んだ。
*** *** *** *** ***
紗の帳を下ろした寝台の中で一組の男女が熱い息を吐きながら揺れている。
女の黄金の髪が生き物のようにうねり、真珠の肌からは玉の汗が転がる。
何度も繰り返された行為の、常と違うのは、己の指先も見えぬほどの闇ではなく、
煌々と照らされた室内で起こっているということであった。
相手の姿も表情もはっきりしているというのに、女王が呼びかける名は変わらない。
「アガイル、アガイル、ああ、愛しているわ!」
対する男の顔は快楽を味わいながらも酷く苦しげだ。
「カナイ、どうか、私のことは、カリウドと。どうか陛下…」
「いやっ、陛下なんて呼ばないで。アガイル、もっと、熱くして、わたくしを
熱くして、嫌なことなんて全部、忘れさせて!」
彼女にとって“彼”はどうしたって宰相以外になりえない。
明らかに宰相とは違う男を宰相と信じている女王は、もう大分正気を失っていた。
このまま完全に狂ってしまった方が良いのでは、とリウは昏い気持ちに囚われる。
女王を位から下ろしたら、ただの病人として、囲って、閉じ籠めてしまえばよい。
「カナイ、私を見てください。私だけを…」
「アガイル、アガイル」
歓喜の涙を零しながら、身をうち震わせ、女王は最愛の男の名を呼び続ける。
“偽りの恋人”なんかじゃない。宰相が愛するのは何時だって女王だけだ。
あの女…政略結婚で結ばれて娘を産んだ、先の辺境女伯では断じて、ない。
「醜悪な光景だ」
突然、帳に翳が落ち、痛烈な非難が浴びせられた。
「貴女はいつだって自分が可愛い。自分のために誰が辛い目に遭おうとお構いなしだ。
女王としても、母親としても、最低の、見下げ果てた女だ」
「誰だっ!」
紗を撥ね上げ、誰何したリウは腹に痛烈な一撃を浴びることになった。
そのまま膝をついた彼は、後頭部にこれまた強烈な一撃を喰らい、昏倒する。
副宰相として文官に転じているとはいえ、もとは宰相の傍らで武官であった男だ。
早々に後れをとることはないはずなのだが、やはり女王のことで心が乱れていた上に
相手が悪かった。女王の寝室に誰にも見咎められず侵入してきたのはイオだったのだ。
「何ともはしたない格好ですね、女王陛下。胸元くらい隠されたらいかがですか」
「お前は…」
先ほどまで無我夢中で“宰相”にしがみ付いていた女は、しかし第五枢機卿の姿に
僅かに正気を取り戻した。ガウンを掛け、寝台を降りるや相手の前にすっと立つ。
「ここはお前が来て良い場所ではありません。速やかに神殿に立ち去りなさい」
「まだ分からないのですか?女王さま。
宰相閣下の後見を失った貴女にはもはや何の力もない」
「何を言っているの?宰相なら変わらずここに…」
「ああ、副宰相殿なら変わらずここにいらっしゃいますね。
お気の毒に、貴女の盲愛に良いように利用されて。報われない愛に足掻いている」
イオの言葉に女王の意識は再び混乱した。意味が分からない。副宰相…どこに?
側にいるのはいつだって宰相であるはずだ。
「真実から顔を背けて生きたいのなら、そうなさい。
但し、王位は譲っていただきますよ。先王と貴女の唯一の子である、この私に」
そうしてイオは譲位を認める書状への署名を女王に迫った。
「誰に何を吹き込まれたのか知らないけれど…わたくしが産んだ子は王女だけよ。
先王との子ども?そんな汚らわしい子どもなぞ存在しないわ。
お前は、神殿に籠って、法王を継ぐことのみを考えていれば良いのよ
…下がりなさい」
そうして、女王は書状も筆も机から床へと薙ぎ払ってしまう。
「汚らわしいのは貴女の方だ。先王に守られ、“4人”に守られ、宰相に守られ、
副宰相に守られ…結局、自分では何一つ為そうとしない。自分の両親を殺した男に
無理やり嫁がされた“可哀そうな自分”とやらに酔っていただけだ」
「お前に何が分かるの?身体の不自由な夫に世継ぎを生めと毎晩強いられ、それが
難しいと知るや別の男たちを宛がわれて…私の意志なんてどこにもなかった!」
「だから、両親に似てもにつかない醜い赤子が産まれた時、黙って夫が赤子を捨てる
のを見て見ぬ振りしたという訳ですか。最初からそんな赤子など存在しなかったと」
「知らないわ!わたくしは、あの魔王のような男の子なぞ産んでいない!」
そう叫びながらも、女王にはイオが誰だが分かっているようであった。
同時に、図らずも、王女が先王の子でないことを暴露してしまっている。
「母上、とお呼びすべきでしょうか…?ほんの少しでも良心の呵責があるのなら、
私に位を譲りなさい。ああ、心配しなくとも、百数十年ぶりの神王座を復活させる
予定です。神殿と王家を融合させて、マルモアに反映をもたらすことをお約束
しましょう。妃にはエルミヤ辺境伯サヤを迎え、王家の永年の確執も解消させる
こととします」
「お前が…婚姻?カヤの娘と?」
それは女王が最も忌み嫌う組み合わせだった。
先王の血を繋いでゆく者と先の辺境女伯の血を繋いでゆく者。
どちらもこの世から消し去りたい血脈だ。
「枢機卿であるお前の婚姻なぞ認められません。ましてサヤが相手なぞ」
「あくまで反対されると言うならば…消えていただくことになりますよ?」
琥珀の瞳から静かに殺気が溢れ出す。
元よりどちらにも親子の情なぞ、ない。
ゆっくりと自分に伸ばされた褐色の腕に女王は身震いした。
寝台の上で先ほどまで流していた汗が急速に冷たくなってゆく。
頼みとなる“宰相”は寝台にうつ伏せて伸びたまま微動だにしない。
「さあ、女王さま、譲位か死か、好きな方を選ばせて差し上げます」
第五枢機卿は本気だった。本気で憎まれていると、女王は悟る。
「待って、玉璽を渡すから待って…!」
慌てて女王は隣り部屋に移って、玉璽の代わりに隠していたものを懐にしまう。
そうしてから、彼女は…隠し通路を使ってその場を逃げ出した。
「無駄なことを」
第五枢機卿にとって女王の逃亡など想定内であった。
隠し通路の先がどこに通じているかも先刻調べはついている。
折角、余生を静かに“宰相”と送る道も残しておいてやったのに、全て台無しだ。
「それでは、お望み通り、あちらの世界に送って差し上げましょう。
自分の思い描いた夢の中に入っていかれるが良い…永久に」
アイオンは神王座への障害となる女王の息の手を止める決心をした。
次回、「七粒と二片」女王を弑せんとするアイオンの前に宰相登場。
けれども宰相の目的は女王救出ではなくて…?
遅れて、サヤも登場。イオの大暴走を止めることができるのか。
それから、罠に嵌められた少将、王女さまとどうなるの?
…お楽しみに。




