86.わからない自分 ★
「自分で自分がわからない……」
王城内のオーギュストの執務室で、デジレは自分の机に頭から突っ伏していた。大量の自分の仕事はほぼ手を付けられずに山積みになっている。
その紙の山からある程度取って、オーギュストはデジレに聞こえる程大袈裟にため息をついた。
「それ、前にも聞いたな」
「もっとわからなくなりました……」
顔を完全に伏せているデジレから、くぐもった声がした。以前に増して朝からろくに使い物にならないデジレに、オーギュストは苦笑いする。
「何があったんだ。ついこの間盛大に振られたはずだが?」
「……キスしました」
「は? それも前に」
「二回目です」
言いながら、ますますデジレは頭が痛くなって頭を抱える。
そうだ、二回だ。二回もマリーに勝手にキスしてしまった。男として、紳士としてはあるまじき行為だ。一回目も自分が許せなかったが、二回目だとどう考えても言い訳もできるはずがなく、デジレはこんなにも己は最低だったのかと自己嫌悪する。
しかも、今回はしっかりと記憶があった。
マリーを見るたびにうずく心を収めるために、なるべく彼女を見ないようにした。彼女の好きな相手はデジレではないのだから、勘違いして浮かれないようと自らに言い聞かせた。なにかが内からせり上がってくるような気持ち悪さを感じながら、調子が悪い心臓をそのままに、なんとかマリーを迎えに行った。
さっさと仕事のように終わらせて帰りたかった。それでも、マリーに会うと別れるのは惜しいと思う。しかしマリーを夜会で好きな人に会わせるのだと考えると、やはりすぐに放り出して帰りたかった。
「またしたのか」
「……はい」
オーギュストの確認に、デジレは小声で肯定する。
デジレの気持ちを知るはずがないマリーは、いつも以上に魅力的で、やけに積極的だった。
手を握られて上目遣いで止められるのは、しばらく時間はかかったがなんとか躱した。先日のお返しとばかりにずっと見つめてきたのも、視線を感じながら耐えた。
それでも、留めるように、縋り付くように抱きつかれたのはとても辛かった。しかも辛い顔をしないでほしいと必死に涙目で言われると、抱きしめて落ち着かせたいと動こうとする腕を引き留めるのに精一杯だった。
デジレは嫌いじゃないとまるで好きだと言わんばかりに繰り返すマリーに、つい目を向ければ、青い目がデジレだけを捉えていた。自分だけに向けられていると思えば、心にじわりとなにかが広がる。いつも綺麗だと思っていた、デジレが送った口紅を塗っている鮮やかな彼女の唇に自然と目が行くと、もう止まらなかった。
「……キスしたことは、謝りました」
「謝った! 待て、前回もキスしたことを謝ったのか?」
「いえ、前回は姉に謝るなと止められて」
机と自分の身体の間に腕を入れて、デジレはなんとか上体を持ち上げた。ちらりと見えるオーギュストは、なにか呟きながら考えている。
やってはいけないことだった。
マリーに好きな人がいると知りながら、無理矢理キスしてしまった。二人の仲を取り持つと言いながら、切り裂くようなことをする。それに、キスの後、マリーの頰に涙の跡があった。
男としてあるまじきどころか、人として最低で失格だとデジレは思う。しかも自分がマリーを泣かせたと思い出すたび、デジレは消えて無くなりたかった。
はじめて会った、夜の中庭で泣くマリーを思い出す。あの時のデジレは、なにもマリーを泣かせたいと思っていたわけではなかった。
「好きな相手がいるのに、なんてことを……死にたい」
「あー……、彼女は抵抗していたのか?」
オーギュストにためらいがちに聞かれ、デジレは自分の唇に触れる。
感覚は、覚えている。唇に、残っている。
とんでもなく甘美で柔らかくて、幸福感を覚えた。何もなければ、そのままずっと彼女と唇を合わせていたかもしれなかった。
力を込められた腕で我に返って良かったと思う。それまで彼女はされるがままだった気がするが、いきなり男にキスされては身体が固まるに違いないとデジレは思う。
「抵抗できなかったのだと」
無抵抗なマリーの唇を蹂躙したのだと思うとまた自己嫌悪するが、どこかでわずかに反する気持ちがある。もっとしたかったとか、できてよかったとか思う自分勝手でふしだらな気持ちを、デジレは必死に頭から追い払った。
マリーがキスすべき相手は、デジレではない。
「相手が誰か知っていれば、彼にも謝ったのに」
いまだ、デジレはマリーの好きな相手を知らない。今のデジレは、とにかく彼が誰か知りたかった。
謝りたいという気持ちがある。それと同時に、どれほどの相手なのか知りたかった。
デジレが、彼ならばマリーを幸せにしてくれるだろうと思えるような相手がよかった。そうすれば辛い思いも、納得させて収まるだろうと考えた。
しかし、誰かはわからない。
のろのろと顔をあげたデジレは、うろうろとして掛ける言葉を探しているらしいオーギュストをぼんやりと見つめた。
「……相手が殿下なら、よかったのに」




