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84.セカンド・キス

 


 シトラスの香りがする。


 気付いたら、至近距離に長い睫毛(まつげ)が見えた。

 白く輝く金色で綺麗なそれは、よく見知ったもので。

 唇に触れている、同じような柔らかいものが彼のものだとわかると、マリーは目を閉じた。


 視覚を閉じれば、触感が研ぎ澄まされる。

 温かくて、柔らかく、少し濡れている。どこか甘くて、弾力がある。

 口を塞がれているのに、辛くない。


 二回目となれば、すぐにわかった。

 マリーは今、キスされている。


 理解すれば、心が震えた。喜びと幸せが込み上げてきて、目尻から雫となって頰をたどる。

 ただ唇が触れ合っているだけなのに、幸せで幸せで、どうしようもない。その相手が彼だと思い直せば、気持ちが大きく膨れ上がる。身体の隅々まで、甘い痺れが走る。

 頰に彼の大きな手が添えられているのを感じて、マリーはもうずっとこのままでいたかった。


 水が小さく弾けるような音がして、唇が離れた。

 唇から小さく息を零して、急に寂しさを覚える。

 もっとしてほしいと目を開けようとすれば、先ほどより強く、唇が押し当てられた。

 マリーは受け止めて、もたらされる感覚に陶酔(とうすい)する。


 唇を味わうようにゆっくりと柔らかく擦られる。震えるほど気持ち良い。

 唇を食まれて、内側に柔らかさが潜り込む。合間に交わし合う吐息が熱かった。


 どうかこのまま、ここだけ時間が止まってほしい。

 マリーは彼の背に回している手に、力を込めた。


 突如、唇が離れた。

 肩をぐっと押されて、引き離される。

 白く輝く金髪がさらりと揺らぐ。夢心地なマリーは、そんな彼の髪をぼうっと見つめていた。


「あ……」


 彼が、呆然としている。そして、その表情は後悔に暗く塗りつぶされた。


「……ごめん」


 デジレが、言った。


 瞬間、マリーのふわふわした気持ちが冷や水を浴びたように急速に縮まった。甘く、温かさが残っていた唇が一瞬で冷え、顔から血の気が失せる。


「いまの」


 幸せを感じ取ったはずの唇が、固い。


「いまのキスは、悪いことだったんですか……?」


 唇も、心も、身体も震えた。

 デジレが、今まで見た中で一番辛そうに顔を歪めて、下を向いたまま、頷く。


「……ああ」


 ああ、違ったのか。マリーの心に絶望が広がる。

 嬉しい、幸せだと思ったのはマリーだけで、彼はそんなこと思わなかったのだ。ずっとこのままでいたいと思ったのも、マリーだけ。

 デジレは、マリーにキスしてはいけなかったと思っている。マリーと、同じ気持ちではなかった。

 そんな風に謝られるなら、最初に言われたように、光栄に思えと言われた方がよほどましだった。


「そうですか」


 デジレを見ていられなくて、背を向ける。

 肩が震える。心が真っ暗なのに、なにかがこみ上げる。

 唇を手で抑えてそのなにかを留めて、マリーは邸に戻った。


 冷たい風が、涙の跡を(こお)らせた。




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