65.マリーの呼び方
マリーは高い紅茶を一口飲んで、深いため息をついた。
「あらまあ、ご立派なため息」
マリーローズがくすりと笑う。
すっかり外が寒くなった為、茶会は広いプリムヴェール邸室内で行われていた。庭に負けず劣らず趣向を凝らした内装は、マリーには目を楽しませることを越えて、緊張させるものだ。目に付くマリーには価値がわからない絵も、一輪しか差していない立派な花瓶も、一体いくらするのだろうと気になってしまう。
「ねえ、マリー。足はすっかり治ったの?」
「はい、おかげさまで」
マリーは頭を下げた。
あの夜会に参加していたマリーローズは、マリーが足を怪我した時からすぐに、見舞いとしばらく休むよう手紙を送ってきていた。なにもお礼として返せるようなものがないと恐縮していれば、今度元気な顔を見せてくれれば良いとさらりと言ってのけたマリーローズに、マリーは感動したものだった。
「それは良かったわ。マリーが怪我した時、わたくしがすぐに駆けつけようかと思ったのだけど、ノワゼット侯爵がさっとマリーのもとにいったものだからお任せしたの。わたくしひとりでは、マリーを運ぶこともできないものね」
「そのローズ様の気持ちだけで嬉しいです」
「あら、当然よ」
マリーローズは自然に笑う。社交用と違って完成されたものではないが、それでも綺麗で、マリーには可愛くも感じる。こんな笑顔を見せてくれるなら、もう友達といってもよいかもしれないと、彼女はこっそりと思っていた。
「それにしてもデジレよ。あの人、なにをしていたの? 険しい顔でマリーを外に連れて行ったと思ったら、マリーだけを会場に返すなんて。ひとりにするなと釘を刺したのに」
紅茶にミルクを入れて、マリーローズは苛々するように早くかき混ぜる。柳眉がきゅっと上がって、不機嫌さが見て取れた。
「あ、いえ、あれは騒ぎが起こってデジレ様が王太子殿下を気に掛けていたので、わたしが行かせたんです。わたしが、自分でひとりぼっちになっただけなんです」
「ああ、殿下ね。デジレがいなくとも殿下の周りはしっかりしているから、問題ないわ」
実際、マリーローズの言う通りだった。マリーはさすがと苦笑する。
もし、あの時のマリーがマリーローズならば、すぐに状況を把握してデジレを諭して落ち着かせることができたかもしれない。走って足を痛めることなどしないだろうし、そもそも、デジレが秘密としていたことを何も考えずに聞かないだろう。
そう考えると、マリーは何故か落ち込んだ。
「ああ、そうね。マリーははじめて殿下を見かけたのかしら。どうだったの?」
「それはもう! 王者の風格が漂う、堂々とした素晴らしいくちびるでした!」
「くちびる?」
「あ、じゃなくて、いかにも王子様って感じの、格好良くて綺麗で素敵な方でした!」
慌てて言い直したせいで、取ってつけたような褒め言葉になってしまったと、マリーは心の中で焦る。彼の幼馴染であるマリーローズは、ふうんと小さく首を傾げた。
「そうね、そういう風に見せるのは殿下の得意分野ね」
「得意分野って、本当は違うってことですか?」
「ええ、実際は良く言えば慎重、悪く言えば気が弱い。堂々と人前に出るよりは、裏で作戦を考えている方があっているのではないかしら」
秘密ね、とマリーローズが薔薇色の唇に人差し指を当てる。その姿は、艶かしい。
この唇はどれだけの人を虜にするのだろうと、マリーはぼんやり考えた。もうオーギュストは惹きつけているとしたら、もしかすると。
マリーは考えを振り払うように、必死に別のことを考えた。
「あ、ローズ様! 殿下とデジレ様って、仲良しなんですか?」
「デジレと殿下? ええ、昔はまるで兄弟みたいに仲が良かったわ。お互い名前で呼んでいて」
懐かしむようマリーローズがサファイアの目を細める。
「今は周りの目もあり、立場もあるからそこまででは表立ってはいないけれどね。デジレは側近らしく敬語を、殿下は王太子らしく背伸びして話しても、やはりあの二人はあの二人で変わりないの」
何を思い出したのか、小さく忍び笑いをするマリーローズは、マリーにはとてもきらきらして楽しそうに見えた。
「ほら、デジレは親しくなった相手は名前を愛称や短縮して呼ぶでしょう。わたくしもそう、デジレの侍従のベルナールだって、ベルと呼んでいるわね。今はデジレは殿下のことを名前ではなく殿下と呼ぶけれど、それももしかしたら愛称と同じなのかもしれないわ」
マリーは、あっと声を出しそうになって、手で口を押さえた。
デジレはマリーローズをマリーと呼んでいた。マリーのことはマリー嬢と呼んでいた。しかし、今は、マリーのことをマリーと呼んでいる。
ならば、今。デジレのマリーローズの呼び方はどうなるのか。
息を呑んだマリーは、震える唇を、ゆっくり開けた。
「あ……ローズ様は、最近デジレ様に会いました?」
「いいえ? まともに最後に話したのはマリーが鉢合わせたケーキを買ってもらった時よ。見かけたのは、マリーが怪我したあの夜会が最後ね」
話していない。マリーは息を深くはいて脱力する。
マリーローズは楽しそうに笑って続ける。
「つい先日、殿下から久し振りに三人で会おうと誘われたのよ。次に会うならその時かしらね」
マリーは再び緊張する。マリーローズとは対照的に表情を硬くした。




