53.クリーム缶の約束
呼び方も気になるが、それよりも聞き逃せないことがあった。深刻に受け止めているらしく真顔な彼に、マリーは首を横に振った。
「とにかく、わたしに怪我を負わせたって言ってましたけど、この怪我はわたしの自業自得ですからね。デジレ様のせいじゃありません」
デジレも、顔を伏せ気味で頭を振る。
「いや違う。私がいれば、防げたはずなんだ。貴女の傍から離れたのが間違いだった」
「ええ、だって王太子殿下の様子を見に行かせたのは、わたしですよ。それに、ちゃんと待ってるって言ったのに、その場にいなかった方が悪いですし」
「そうじゃない。殿下にマリーの傍にいるように言われていたんだ。殿下の様子を見に行ったら、早く戻れと叱られた。こちらに気をかけなくて良いと言っただろうと。殿下の言いつけを守らずに勝手に動いて、中途半端に対応して、義兄上の手までわずらわせて、この有様だ」
長い白金に輝く睫毛が、震えている。ますます自責の念にかられているように、彼の声が固くなっていく。
これはまずい、とマリーは感じた。偶然が重なって、結果として悪いものになってしまったがために、デジレが責任感で押しつぶされそうだ。
ひとつも顔を上げなくなったデジレに、マリーは焦る。さすがに自分のせいもあるので、なんとかしなければと思う。
――デジレは責任感が強すぎるから、さっさとこちらから適当な要求をしてあげるのがいいのよ。
マリーローズが言っていた言葉がマリーの頭をよぎった。
なにか、適当な要求。なにか、欲しいもの。必死で探すマリーは、ひとつ思いついてあっと声をあげた。すぐにデジレに顔を向ける。
「じゃあ、お詫びとして、あのクリーム缶をもうひとつ、買ってください。もうなくなりそうなんです」
デジレが素早く顔を上げる。目を見開いてマリーを見てくるデジレに、マリーは息を呑んだ。
彼のまっすぐな瞳に、ゆっくりと明るさが戻ってくる。
「……ああ、もちろん! 今度買いに行こう!」
遂には、喜色満面の笑顔になった。
よかったと安心したマリーだが、デジレの言葉に引っかかる。
「え、買いに行こう?」
「もちろん足が治ったら、一緒に」
「買ってきてくれたら、いいんですけど……」
にこにこと、少し興奮して身を乗り出してきているデジレを見ていると、マリーは声が小さくなる。
なにかおかしい。こんなはずではなかったのに、と目をしばたく。
「ああ、実は以前のクリーム缶は姉に取り寄せてもらって、口紅は贈り物と勢いで買ったものの、男一人で化粧品の店に入るのは勇気がいるんだ。実は他にも見てみたい商品があって……マリーが一緒にいてくれたら、嬉しい」
あれ、やっぱりおかしい。
今度はマリーが、彼の顔を見られなくなって俯く。じんわりと恥ずかしくなって耳が赤くなる。
「それは、やっぱり嫌か……」
「あっ、いいですよ! 一緒に行きましょう!」
またデジレが沈みそうになって、マリーはやけっぱちに言った。彼には落ち込んでほしくない。良かった、と呟いて綺麗に笑うデジレを見て、マリーは安心する。
「足が治ってから予定を決めよう」
すっかり嬉しそうな様子で、デジレがこうしてはいられないというように、素早く席を立つ。
「丸一日、休みを取れるように殿下に交渉してくるよ。そのために、働き溜めてくる」
「えっ、働き溜めって」
「じゃあ、また。安静にしていて、マリー」
くるりと背を向けて、駆け足でデジレが出て行く。開けられたままの扉をマリーが呆然と眺めていると、リディが顔を出した。
「ええー、もうデジレさま帰っちゃったんですか? いまからお見舞いのケーキ持っていって、もっと長くいてもらおうと思ってたのに」
はあと息をはいて、リディがケーキをマリーの傍に置く。もちろんあの幻のケーキではなかったが、マリーにも聞いたことがある老舗のケーキだった。
一口食べると、ふわりと舌の上でとろける。
「リディ。わたし、早く怪我を治すね」
「病は気からっていいますし、その調子です!」
後になればなるほど、ちょっとだけ、マリーはデジレと買い物に行くのが楽しみになってきた。
その日以降、毎日のようにデジレは見舞いとしてマリーの様子を窺いにきた。
なぜかすっかりマリー呼びが定着してしまっていたが、彼があまり自覚がないようなので、もうマリーは指摘をしなかった。今日も、午前中にやってきた彼は、椅子に座って少し船を漕いでいる。
「あのー、デジレ様、忙しいんじゃないですか?」
「……あ、いや」
眠そうな声で、デジレは目を擦る。その目元はうっすらと隈らしきものが見える。
「大丈夫。午前中こうやって少し来るくらい、夜会の時より短いのだから、たいしたことない。少し詰め込んでいるだけで、忙しくはないよ」
力が抜けた微笑みを向けられると、マリーは何も言えなくなる。彼がマリーとの約束のために時間を作っているのは知っているので、止めてなど言えない。
「……そうだ、足はもう?」
「はい、もう平気ですよ。普通に邸の中を歩いていますし」
実際、もうマリーはベッドに横たわっていない。椅子に座って、デジレと話している。
「そうか、治って良かった。それなら、早速だけど三日後は空いている? 休みが取れそうなんだ」
「大丈夫です」
「じゃあ、三日後にクリーム缶を買いに行こう。今日のような時間に迎えに来るから」
デジレはそれだけ言って立ち上がる。
毎日来てくれるデジレは、スリーズ邸の滞在時間がどんどん短くなっていた。それに伴い見るたびに疲れが溜まっていく彼は、マリーを心配させる。真面目な彼は、休みのために自分を追い込んでいるのだろう。
「また」
「それじゃあデジレ様、三日後に、また会いましょう」
口を開きかけたデジレに、マリーは言葉を被せた。三日後を強調して伝えると、デジレがしょぼくれた目を丸くする。
「女性は、外出の準備がたくさんあるんです。明日と明後日は準備をするので、来ないでくださいね。あと、目に隈があるような冴えない人と一緒に外出は嫌ですからね。ちゃんと身だしなみ整えてから来てください」
つんと澄ましてマリーは言った。言った後に反応にどきどきしていると、小さく笑い声がした。
「そうだな。ならば、綺麗に着飾ったご令嬢をエスコートするのに相応しい格好で、迎えに来るよ。期待していてほしい」
とても嬉しそうにデジレが笑う。それに従い、彼のさらさらとした白金の金髪が揺らぐ。
相変わらず、疲れていても輝くような容姿で綺麗だなあと、マリーは見惚れた。




