表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
くちびる同盟  作者: 風見 十理
三章  瞳を閉じて
50/139

50.災難か幸福か

 


 周りを気にせず、とにかく走った。目的の場所は決まっていない。

 突然、足を踏み外して痛みが走る。マリーは顔を歪ませ、近くの壁にふらふらと近寄り、手をついた。

 頭を下げて、はあと息をつく。鼓動と足の痛みがどくどくと同調する。

 周囲の騒ぎは少しずつ収まってきていた。もしかしたらデジレが対処したのかもしれない。そう思って顔を上げれば、待っていると言った場所が遠くに見えた。

 戻らなければ。待っていなければ、また彼が心配する。そう思うのに、足の痛みが強くなったように感じて、マリーは息を荒くその場にしゃがみ込んだ。

 人が多い場で、恥ずかしい。そう頭では思うのに、身体が動かない。


「大丈夫か?」


 近くでまた男性の声がして、とっさに身を引く。おそるおそる顔をあげれば、赤髪を清潔に整えた、きっちりとした印象の男性がしゃがんでマリーを見ていた。

 身なりがしっかりとして、なによりシャープな印象を受ける薄手の眼鏡がとても似合っている。その奥に見える碧色の瞳は、綺麗だ。それでも知らない男性であることが怖くて、マリーは身を強張らせた。


「落ち着いてくれ、マリー嬢。私はノワゼット、君の味方だ」


 低いが、優しい声がする。

 ノワゼットという名を、マリーはどこかで聞いたことがある気がした。だが、なかなか思い出せない。

 そうしているうちに、また足が痛みを訴える。それを堪えて足を窺う。


「足を痛めているのか」


 彼が同じくマリーの足を見る。マリーは慌てて、足を隠すように引いた。

 その時ふと思い出した。聞いたことがあるのは、デジレの姉のカロリナだ。確か、彼女の家名がノワゼットだった。シトロニエでないのなら、きっと嫁ぎ先だ。

 一つ思い出すと、するすると記憶が引っ張られてくる。ルージュが、以前の優良物件について話していたことがあった。赤い髪と眼鏡が印象的な、侯爵。少し訳ありでようやく皆が彼の良さに気付いた頃には、既に傍に婚約者がいたと言っていた。


「そのままでは良くないな、客室に行こう。抱き上げるから、しっかりとつかまってくれ」


 失礼、とマリーが呆けている間に、腕を差し入れられて持ち上げられる。

 マリーが短い悲鳴をあげる前に、彼は颯爽(さっそう)と歩き、会場を後にする。しっかり抱き上げられているものの、いきなりのことに驚いて、マリーは彼の首元に強くしがみついた。人前で恥ずかしいと頰が熱を持つ。

 碧の目が、マリーに向けられる。予想以上に近くにある目に、マリーはびくりと身体を震わせた。


「君も災難だな」


 言っている言葉に対して、彼の目は優しい。口元にも笑みが浮かんでいる。きちんとした印象を受けた顔が、それだけで親しみやすさを増す。


「いや、こう言うと妻が怒る。幸福だと言うべきか」


 楽しそうに言う彼の言葉の意味は、マリーにはよくわからない。それでも、妻という言葉に反応して、マリーは口を開いた。


「の、ノワゼット侯爵、様……ですよね? あの、先日は、奥様に、じゃなくて夫人に、えっと、声をかけていただいて」


「ああ、妻が君に会ったと喜んで話していた。なんせ、義弟(おとうと)の一大事だからな」


「? あの、夫人は、今日は……」


「妻なら邸に押し込んである。さすがに身重であれ以上暴れさせるわけにはいかない」


 幸せそうに話すなあと、マリーは感じた。低い声なのに、内容が少し荒いのに、そこには明確な妻への好意が読み取れる。

 ぼんやりとノワゼット侯爵を見ていると、彼は客室に入り、ベッドに彼女をそっと降ろした。


「ここで横になって休んでいるといい。足の様子は?」


「今は痛みが引いてきました」


「それは良かった。では、デジレを呼んでこよう」


 微笑んで立ち上がる侯爵に、マリーは慌てて彼の袖を掴んだ。


「あの! わたしがいた場所の反対側、赤いソファーがあるところが、待ち合わせ場所だったんです! そこに、きっとデジレ様がいます。……待っていなくてごめんなさいって、代わりに伝えてくださいませんか」


「承知した」


 優しい笑みを浮かべて、侯爵が頷く。マリーはほっとして、手を離した。


「そうだ、勿論その足が治ってから、時間のある時で構わない。是非デジレと共に侯爵家に来てもらえないか? 妻が、君たちに会いたくてうずうずしているんだ」


「え? そんな、光栄です……。機会があれば、是非」


「ありがとう。妻も喜ぶ」


 彼は自身の妻の話となると、本当に幸せそうな顔をする。実際幸せなのだろうと、マリーは自然とわかる。

 いいなあと、思う。平凡でいいと言いながら、贅沢はしなくていいと言いながら、マリーはノワゼット侯爵のように幸せに笑えるような相手との結婚がいいなと思っていた。

 それは、お姫様は王子様と結婚して幸せに暮らしましたという、物語のハッピーエンド。ただ、そこまで求めるのは、とんでもない贅沢になるとマリーはわかっていた。

 王子様になるはずの相手なんて、見つけていないくせに。わからなくなっているくせに。そんなマリーが求められるものではない。


「それでは、ゆっくり体を休めて待っていてくれ」


 侯爵は扉を閉めて出ていった。

 ぽつんと残されたマリーは、痛んでいる足をじっと見つめた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ