48.待っているから
「あ、肩は痛くなかった? ごめん、急に強く掴んでしまって」
いつもの表情に戻って、焦ったようにマリーを窺うデジレに、彼女は吹き出した。
「すぐに離してくれたので、大丈夫です」
すると、彼がほっとした表情を見せる。そしてばつが悪そうに頬を掻いて、マリーに手を差し出した。
「それでは、戻ろうか」
もう慣れたものだ。笑いながらマリーはその手に、自らの手を預ける。すっと引かれるままに自然に従って、デジレの隣に移る。
突如、女性の悲鳴が聞こえた。
はっとして二人して声の方を向くと、男性の大声や、騒がしい音が聞こえてくる。次から次へと流れてくる声から察するに、喧嘩が起こったようだった。
夜会の会場の方向だとマリーが気付けば、デジレに預けた手がぐっと握られる。彼の顔を窺えば、騒ぎの方を歯を食いしばって苦しそうに見ていた。の頰に、汗が一粒流れる。握っている手が、小刻みに震えている。
「行っていいですよ」
「……え?」
マリーに顔を向けたデジレは、みるからに憔悴していて余裕がない。力が抜けた彼の手からするりと自分の手を抜くと、マリーは彼の目の前に立った。
「気になるんですよね? 王太子殿下が大丈夫か、心配なんですよね」
デジレが目を丸くする。絶えずちらちらと事件の場所を気にする素振りに、マリーはため息をついた。
「わたしは大丈夫ですから。行ってきてください」
「いや、しかし……」
ようやくデジレがマリーの目を捕らえる。その瞳は不安で揺らいでいた。
「貴女を一人きりにするわけにはいかない」
「大丈夫ですって」
「マリー……ローズに、以前女性に絡まれたと聞いた」
マリーローズが話したのか。恥ずかしいと感じながらも、マリーは気丈に見えるよう堂々とした。
「あれは人気のないところに、のこのことついていった、わたしが悪かったんです。もうそんなことしませんし、人が多いところにいれば問題ありません」
「だけど、貴方は私が離れると姿が見えなくなるし、私から離れても戻らない」
うっと、マリーは返事に窮した。
思い返せばデジレの言う通りで、彼をまともに待ったことも、彼の元に戻ったこともなかった。だからこそ、最近はずっと傍から離れなかったのかと今更ながらに思う。
「それは、ごめんなさい。じゃあ今回は、会場内でいたところから動かないでいますから」
デジレの瞳がうろうろして、未だ安定しない。不安で葛藤しているのだと思うと、マリーは申し訳なくなってくる。
しかし、こんなに気にかけている彼を、行かせないわけにはいかない。
「デジレ様なら、すぐに戻ってきますよね。待ってますから」
彼が、じっとマリーの瞳を見つめる。絶対逸らしてはいけないと感じて、マリーはそれを受け止めた。
どれだけそうしていたか、マリーにはわからないが、デジレが瞳を閉じた。
「……ありがとう」
落ち着いた声だった。
「すぐに様子を見てきて、騒動を収めてくる。だからせめて、マリー嬢を会場まで送らせてもらえませんか」
開かれた優しく強いエメラルドの瞳を認めて、マリーは頷いた。
駆け足で邸の前まで来ると、マリーはデジレにここで良いと告げる。彼は素直に首を縦に振って、彼女から離れた。
「すぐに戻るから、待っていてください」
マリーが肯定と取れる笑みを浮かべたのを見て、デジレは一目散に駆け出した。
あっという間に姿が見えなくなると、マリーはさてと会場に歩を進める。
騒ぎが波及している邸内は慌ただしい。皆が喧騒の出所を気にしているので、誰もマリーに気付かない。彼女はそのままデジレと話していた壁際に戻った。
かしましい室内をきょろきょろと見てみると、オーギュストの姿が見当たらない。デジレは護衛が付いていると言っていたし、何より王太子だ。デジレも向かったことだから、きっと大丈夫だろうとマリーは信じることにした。
「あれ、貴女はデジレさんの?」
デジレと聞いて、マリーは顔を向ける。
気が付かなかったが、茶髪の同じ年頃の男性が、マリーの傍にいた。
顔は至って普通で、人畜無害そうな目をしている。身長は平均より少し低いかもしれない。唇は、特徴がない。
マリーの窺った目を警戒と取ったのか、彼は慌てて名乗った。マリーと同じような家格の二男で、家名は聞いたことはなかった。
マリーは、丁寧に、しかし簡潔に挨拶する。マリーローズに教えられた事を思い出して、笑顔を向ける。
「何か騒動が起こっているようですが、ご一緒のデジレさんは? 貴女を置いてどこかへ?」
「ご心配、ありがとうございます。彼はすぐに戻ってきます」
マナーの実践ははじめてで、舌が絡まりそうだった。
デジレ相手には、当初嫌ってぞんざいな言い方であったこともあり、わさわざ変えるのもどうかとそのままなにも気にせず話している。デジレは気にした様子もなく、彼も普通の口調で話しているので、マリーとしてもちょうど良かった。
だが、初対面の相手にはそうもいかない。
とにかく女は笑みが武器であるというマリーローズの教えに従って、作り笑いをずっと浮かべているが、既に顔が辛い。




