キスの許可②
「まあ……わたくしに」
ほっそりとした指が、赤い缶を掴む。目の高さまで持ち上げ、マリーローズはそれをしげしげと見つめて慎重に蓋を開けた。
薄く柔らかい黄色のクリームが顔を出す。
「マリーが使っているものと同じね。デジレに買ってもらったの?」
「いえ、わたしが選んでわたしのお金で買いました! デジレ様もいましたけど、全部わたしがローズ様にあげたくて用意しました。ローズ様にとっては、たいしたものじゃないと思いますけど」
クリーム缶は、マリーにとっては目が飛び出るほど高かった。しかし、マリーローズを見るたびに、薔薇柄のクリーム缶が常に脳裏をよぎっていた。
色々理由をつけているが、贈ったのは自己満足かもしれない。マリーは恐る恐る彼女の様子を窺っていた。
「マリーが、わたくしのために……」
マリーローズがゆっくりと、綺麗な声で呟いた。
缶の蓋を被せ、しっかり閉める。片手の掌に置いた赤い柄が見えるそれを、彼女はもう片手で柔らかく包んだ。
「たいしたものでないなんて、とんでもない。最高の贈り物だわ。大切に、大切にするわね、マリー。ありがとう」
薔薇の蕾が開いたようだった。
白い繊細な肌に、濡れたサファイアが柔らかく細められ、二枚の紅い花びらが開いて自然と笑みの形を作っている。驚くほど美しいが、そこに漏れ出している嬉しさを感じ取って、マリーもつられて嬉しくなる。
「そう言ってもらえて嬉しいです、ローズ様」
「ローズ」
「え?」
マリーローズが、見事な笑みを保ったまま唇だけ動かした。
顔は変わらないのに、なぜか今は威圧感があって怖い。
「マリー。ローズと呼ぶように、言ったでしょう。先程から忘れたの?」
「わ、忘れていないです。でも、身分が」
「そんなものなんとかすると言ったのは誰?」
「うっ、でもローズ様は王太子殿下の婚約者で、ひいては王妃になるお方ですよ!」
マリーが必死に言えば、マリーローズは途端に目を伏せた。長く麗しい睫毛が小刻みに震える。
「……わたくしは、マリーを特別な友人だと思っているのに、マリーはそうではないのね。王妃は、友人ひとりも持たず孤独でいろと?」
そういう彼女の姿は儚く、消えて無くなりそうだ。マリーは胸が詰まる思いがした。
マリーも、マリーローズは特別な友人だと思っている。夜会などで話をするようになった女性はいるものの、結局は何かを相談したい時や知りたい時はマリーローズのもとに行ってしまう。何より、デジレの話をできるのは彼女くらいで、その話を聞いてくれるのも彼女だけだ。失いたくはない。
「そんなことありません! だから……わかりました。わたしでよければ、そう呼ばせていただきます」
「マリーが良いのよ」
ぱっと一変して可愛らしい笑顔を浮かべるマリーローズを見れば、先程の落ち込みは演技だったと確信が持てる。わかっていながらも弱いのは、結局マリーが彼女を好きなせいだ。
マリーはマリーローズの言葉をそのまま受け取って、はにかんだ。
***
マリーローズは赤いクリーム缶を眺めて口元を緩めながら、歩いていた。
マリーからしっかりと贈り物を貰うのははじめてで、ずっと笑みが止まらない。オーギュストに見せて自慢しようと、彼女は王城の廊下を機嫌よく歩いていた。
午前中に会ったマリーを思い出すと、つい笑い声が零れる。
マリーは、ずいぶんと垢抜けた。最初に会った頃は鼠が布を被っているような酷い有様だったが、マリーローズの指導と夜会通いが増えた頃から、急激に綺麗になった。もとの顔はよく見ればたいしたことがないが、何か内側から光るものがある。一端の令嬢などよりはるかに美しい。
また、礼儀もよく身に付いている。婚約披露の場での振る舞いはほぼ完璧で、マナーを叩き込んだマリーローズとしては鼻が高かった。
本人はよくわからないと言うだろうが、常にデジレと一緒で、頻繁にマリーローズに会い、オーギュストにまで顔を合わせていた彼女は、いつの間にやら高位の相手に対し、肝が座るようになっていた。緊張した、と後から言う割には落ち着いて見えるので、世辞ではない賞賛もいくつか聞いた。
人前では大人しく控えめで清楚でありながら、マリーローズの前では表情豊かで素直に本音をしっかりとぶつけてくる。そのマリーローズに気を許している姿が、たまらなく可愛い。
マリーローズはもはやデジレの話などマリーとしたくなかった。どうせ惚気ばかりだ。彼女自身の話を聞きたいのだが、デジレの話をする彼女が今のところ一番いじらしく可愛いので我慢していた。
「あら」
そんなことを考えていたせいか、目の前からデジレが向かってくるのが見えた。彼も気付いたようで、立ち止まる。
爽やかな白金のように煌めく柔らかい金髪に、印象深いエメラルドの瞳。眉、鼻筋はきりりとして整っており、肌も滑らか。こだわっている唇も健康的な色合いでしっかり形良く閉じられており、体格も背が高く、細身過ぎず引き締まっている。
本当に、デジレは見目だけは良いとマリーローズも認める。オーギュストとは違う美貌だが、彼と同等以上の容姿は、彼の父親くらいしか覚えがない。
「デジレ」
声をかければ、デジレが僅かに後退した。きゅっと眉が寄せられ、目には怪しいものを見たような警戒心が見て取れる。
「話があるのだけれど」
「……ここで聞く」
最近のデジレは、マリー以外の女性と物理的に距離を置いている。二人きりになることは絶対にない。幼馴染のマリーローズでさえ、これだ。
いや、マリーローズ相手だからこそ、これだけ警戒されるのかもしれない。彼女はふっと笑った。
「マリーに会ってきたの」
「マリーと?」
わかりやすく話に食いつくデジレに、マリーローズは心の中で呆れた。
婚約後のマリーからデジレの話を聞くにつれ、デジレの態度を見るにつれ。デジレの良さはその容姿と仕事ができるだけではないかとマリーローズは思いはじめていた。
正直言って、デジレは面倒くさい男だ。マリーローズならひっぱたいているだろう。なぜ一時でも彼を気に入ったかわからなくなってくる。
マリーはこんなに大変な男で良いのかと思うのと同時に、マリーでないと駄目かもしれないとも思う。仕方がないので、マリーが目を覚ましてやはり嫌だと言った時には、全力で助けようと決意している。
「あなた」
ただ、そう言われるまでは。マリーのためにふたりを応援するつもりだ。
「マリーにキスするとき、どのくらい我慢しているの?」




