123.世界で一番愛しいくちびる
目を閉じて思い切り言うと、その後なんの音もしなかった。夜の静かな空気だけが、肌から感じられる。
目をそうっと開ければ、デジレが抜けた顔を晒していた。そのまま全く動かないので、まさかわからなかったなんてことは、とマリーが一瞬不安に思うと、急に視界が高くなった。
小さく悲鳴をあげれば、至近距離にデジレの顔が見えて、息を呑む。胴のあたりに手で支えられている感覚がして、ようやくデジレに抱き上げられたのだと気付いた。しっかり支えられているものの、慌てて彼の肩に手を置く。
「も、もう一度!」
上擦る声で、デジレが言う。吐息すらもわかる距離で、恥ずかしくてくらくらする。
近くで見る彼の瞳は、月光を受けてエメラルド以上に鮮やかな色を見せ、期待と喜びで輝いていた。艶やかな唇も、口角が上がっている。
絶対に聞こえていた!
どう見てもそうだった。もうここまできたらと、マリーは真っ赤になって言った。
「好きです!」
「……唇よりも?」
「唇を含めて、デジレ様のぜんぶが好きです!」
「俺も、唇を含めて、マリーの全部が大好きだ!」
そう言うと、デジレはマリーを強く抱き締めた。また変わった体勢にマリーは声を上げて、彼の首にしがみつくよう腕を回す。
マリーの肩に顔を置いたデジレは、少年のように楽しそうに笑った。そのままくるりと回転して、マリーの悲鳴にまた、今度はこれ以上ないほど嬉しそうに声を上げて笑う。
シトラスの香りが、ふんわりとマリーを包む。
涙腺が刺激されて、マリーは泣きそうになった。
こんな奇跡あってもいいのだろうか。最初は嫌いで、徐々に惹かれて、好きになったのに手の届かなかった人。そんな人が、マリーを好きになってくれて、そう教えてくれて、両想いなんて。こんなに幸せなんて。
そして、デジレも、とても幸せそうなんて、なんて贅沢なことだろう。
「デジレ様」
とん、と背中を叩けば、身体を少しだけ離して顔を覗いてくれる。距離は変わらず近い。
再度見たデジレは、マリーが大好きな笑顔をしていた。それだけではなく、興奮したのか頰は赤く、目は蕩けそうに柔らかく細められ、唇が笑顔を引き立てている。誰が見ても幸福と言える顔に、マリーにはそれ以上の気持ちをしっかりと感じ、嬉しくて堪らなかった。
「お願いがあるんです」
「マリーの願いなら、なんだって」
心の奥底から湧き上がるものと、デジレの醸し出すはばからない喜びから、マリーも花が綻ぶように嬉しさを零しながら微笑んだ。
「くちびる同盟、もう一度デジレ様と結びたいんです」
マリーは考えていた。
もしも、マリーローズと話をつけ、デジレと話すことができ、関係性を戻せるのならば。二人を繋いだ同盟を、今度はマリーから、結び直したかった。
しかし、今はもしもの状況をはるかに突き抜けてしまっている。マリーはつい笑った。
「でも相手のくちびるを他から守ることも、キスしたくなるような相手探しに協力することも、もう必要ないので。同盟内容を変えて」
頰が紅潮するが、今のマリーの気持ちを言葉に乗せる。
「心に決めた人にしかくちびるを許さないという内容で、もう一回、わたしと結んでください!」
言った途端、デジレが顔を輝かせた。
「ああ、もちろん! でも、マリー。俺にも言わせてほしい」
抱き締められる手に力が入る。顔がより近くなる。
デジレがまた真剣な顔に戻るが、目は嬉しそうに輝いていた。
「マリー。私と結婚してください」
いつか言われた言葉だ。
そう思ってすぐ、唇が答えた。
「はい!」
素直な気持ちだった。
正直に言えることが、嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
ずっと伝えられないと思って、隠して隠して。デジレは自分が好きではないのだと思って泣いたこと。
一切我慢しないで、受け止めてもらえることが、とんでもないほど幸せだ。
「……ああ、どうしよう。幸せだ。世界で一番愛しいくちびるから、人生で一番嬉しい言葉が紡がれるなんて」
愛しいと隠さない熱い眼差しが、マリーに惜しみなく注がれる。今、この瞳を向けられているのはマリーだと思うと、身体が喜びに震える。
幸せであるように祈った。そうするのがお互いの存在で、一緒に手を取り合って幸せになれるなら、これ以上ないことだ。
空に浮かぶ月が彼らを包むように柔らかく輝いている。
どうか、この想いを忘れないように。ずっと相手を幸せにし続けられるように。
マリーはデジレを見つめながら、彼だけの唇に笑みを浮かべる。そして、彼女だけの唇を受け入れた。
数年後。
王太子妃が王太子を連れて押し掛け、加盟者数を増やしたくちびる同盟が、その後国内に広がり、恋人たちに大人気となって盟主が崇められるなど、二人はまだ知らない。
fin.
本編はこれにておしまいです。
お読みいただきありがとうございました。




