114.兄
マリーは未だ、ぼんやりと部屋の中にいた。
食事は喉を通るようになった。立ち上がるまでは億劫だが、動いてしまえばそれなりになんでもできる。しかし、家族がマリーのやることを取り上げ、休んでいるように言って部屋に押し込む。
何もすることがなく座っていると、突然デジレのことが思い出されてまた涙が零れる。
何度も何度も、思い出の引き出しにしまい込んでしまおうとしても、あふれてしまえない。何度も何度も、同じような思い出が自然と浮かび上がって、マリーをあざ笑うかのように彼女の心を翻弄する。
最近はすっかり、それに抵抗するのをやめた。ずっと泣き続けることはなくなったが、突然目が潤むので、周りにさらに気を遣わせることが申し訳ないと思う。
「マリー、ちょっといいか?」
ジョゼフの声がして、マリーは返事をする。もう部屋にひとり篭ることはなかった。
扉を開けた彼は、唇を一文字にひき結んで、いつもの様子とは違った。彼は俯きがちにマリーを見ずに部屋に入ると、不思議な顔をしている彼女の前に、なにかを放り投げた。
どさりと落ちたそれにマリーが目を向ければ、手紙の束だった。手を伸ばして拾えば、ジョゼフが勢いよく、深く頭を下げる。
「ごめん!」
「え?」
なにやら謝っているジョゼフにマリーはぽかんとする。手元の手紙がやけに気になって、自分宛のそれを裏返す。送り主の名前を見つけると、マリーは一瞬呼吸を忘れた。
「それ、毎日のように来てたんだ。でもおれが止めてた。どう考えてもあいつのせいでマリーがこんな目になってるのに今更なんだよって、マリーが失恋したっていうから、マリーを振った男からの手紙なんていらないと思って!」
とつとつと語るジョゼフの声を聞いているのか聞いていないのか、マリーはわからずただデジレからの手紙の束を見つめる。
震える手で一通取り出して、思い切って開けて見る。彼らしい丁寧な文字が並び、夜会の話とそれへの誘いが簡潔に書いてある。その内容が、自然と脳内で彼の声で再生される。
「あのさ、マリー」
ジョゼフに顔を向ければ、彼は真面目な顔をしてマリーを見ている。
「おれに相手探してくれって言っただろ。そうじゃなくて、マリーは、自分がいいなと思った相手にしてくれ」
ただただ彼の同じ青い瞳を見ていれば、ためらいがちに揺れる。
「……こんなこと言いたくないけど、あの側近君でよかったら、それでいいんだぞ」
「なに、言ってるの」
マリーは笑おうとして、失敗した。言葉が喉に張り付いているように、出にくい。
「わたし、失恋したって。それに、あの人にはもう」
涙がまた出そうで、マリーは思い切り頭を横に振った。
「だいたい、家格が違うでしょ。うち貧乏貴族だし。身分はもちろん、持参金とか絶対無理じゃない」
「大丈夫だ! 身分とかはおれもどうすればいいか知らないけど、持参金もよく知らないけど、マリーをどこの家に嫁にだしても大丈夫なだけ、金はある! 恥ずかしくないくらい支度させて、送り出せるんだ!」
「だからそんなお金なんて」
「あるんだ!」
大声で言ったジョゼフは、座るマリーの傍に大股で近寄った。そして、目の前にしゃがんでマリーを覗く。
「貯めてたんだ。父さんと、おれで、ちょっとずつ。マリーのために」
マリーは耳を疑ったが、ジョゼフの青い目に、嘘はみられない。
「な、なんで、そんなお金があるならわたしに遣わないで、家とか領地のために使ってよ!」
「いやだ!」
ジョゼフの声が、部屋に響く。主張の強さと比例するようにとても大きな声は、マリーの口を止めた。
ジョゼフが大きく口を開いた。
「マリーのためなんだ!」
マリーの腕が、掴まれる。暖かい手だった。
「母さんが亡くなってから、父さんはあんなのだし、おれも似たようなものだし、マリーにどう接すればいいか迷ったんだ。母さんの代わりにマリーの話も聞いてあげられない、女らしいこと全然構ってあげられないってさ」
真剣に目をあわせて話してくるジョゼフに、マリーは視線を外せない。
「でもさ、マリーはそんな不甲斐ないおれたちのために、精一杯頑張ってくれただろ! 稼ぐこともできないからって、令嬢ならしなくていいはずの家のことをはじめて、若いのに女主人をなんとかこなそうとして!」
握られた手に力が篭る。ジョゼフの目にも力が篭る。
「おれたちにとっては、マリーは天使だったよ。いつも支えてくれてさ。だからさ、おれたちは、せめてこれからのほとんどの人生を過ごすことになる嫁ぎ先で、マリーには幸せに過ごしてほしかったんだ!」
ジョゼフは立ち上がって、マリーを見下ろす。仁王立ちになって、息を大きく吸った。
「家族の幸せを願って、なにが悪い!」
心を揺さぶる程の大声に、マリーは口元を手で覆って震えた。




