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くちびる同盟  作者: 風見 十理
六章 目を開ける
111/139

111.お願い

 



 どたどたと廊下を激しく走る音がした。マリーが自室の扉に顔を向ければ、そこはすぐに強く開けられた。


「マリー! 来たぞ!」


 ジョゼフが息を切らして、それでも大きな声で言う。マリーはほんの少しだけ、笑った。

 リディに、ジョゼフに話をしたいと伝えてもらったが、どうやら彼は帰ってすぐにまっすぐ飛んできたらしい。服装は騎士団のもので、汚れが見えれば汗も(にじ)んでいる。

 マリーが(ふさ)ぎ込んだ今まで、一番心配して何度も何度も部屋に向かって声をかけてきたのは、兄のジョゼフだった。


「うん、ありがとう兄さん」


 声は少しずつ元に戻ってきていた。しかし、デジレと別れた日から何日経っていても、涙は止まらなかった。

 ふと小さなことでもデジレを思い出しては、目が(うる)む。涙があふれる。とにかく涙として感情を出し切ればすっきりするのかもしれないと、はばかりなく泣き続けた。まだ、その気配はない。

 少し(にじ)んだ目元を、指で押さえる。ジョゼフは必死で口を結んでいて、心配でたまらないといった表情だ。


「わたし、兄さんにお願いしたいことがあって」


「なんだ! おれにできることならなんでもしてやる!」


「うん」


 スリーズ家の負担にならないようにと思っていたのに、最近は手をかけさせて申し訳ないとマリーは思う。駄目な娘で妹だなあ、とマリーは俯いた。


「兄さんに、わたしの相手を探してほしくて」


「え?」


 大きな声で聞き返すジョゼフは、決して聞こえていないわけではない。顔を見ればどうやらかなり驚いている彼が、マリーは少し不思議だった。


「駄目、かな。変な噂が広がった妹なんて、やっぱり駄目かな」


「そんなことない! そんなことないけどさ、マリー、こんなことになってるのに……」


 珍しく、ジョゼフが目を逸らして声を小さくする。マリーは、そう気を遣ってもらうだけでも涙があふれる。


「大丈夫だよ。大丈夫になるから」


 ぐすぐすと、鼻が鳴る。目元を拭って、マリーはしっかりと前を向いた。


「でもね、ごめん兄さん、二年ほど待って。……やっぱ一年でいいかな。一年経ったら、兄さんが選んだ人のもとに嫁ぐから。スリーズ家からみて良い立場の人なら、誰でもいいの。こんな貧乏貴族の、噂付きの娘で、若さくらいしか取り柄がないのに行き遅れになっちゃうけど、それでもいいって人がいたら、もう、誰でも」


 ここまできて我儘を言う自分に呆れるが、どうしても今すぐには結婚なんて考えられなかった。その代わり、家のためならどんな相手にだって嫁ぐとマリーは決めた。本来貴族の令嬢は、そういう政略結婚が多い。それにもともと、平凡で相応な相手をと考えていたのも、スリーズ家のためだった。そういう考えだった。


「難しかったら父さんに頼んでもらってもいいよ。どうしてもいなかったら……どうしてくれてもいいからね。修道院だっけ、行けというなら行くし。兄さんたちはそう言わなくても、家の邪魔になると思ったら自分で行くよ。スリーズ家は兄さんがいれば続くしね」


 万が一、結婚が難しいようならそれはマリーのせいだ。それでもいいかと、マリーは無責任なことを考えてしまう。

 もう一生、初恋の想いだけ抱いて、他に目を向けないのもいいかもしれない。自分がかわいくて、そう思ってしまう。

 感情を隠すのが下手なジョゼフは、先程から辛そうな顔に怒りを混ぜていた。それが、今のマリーの言葉で憤怒に塗り替えられた。


「あいつだろ!」


 ジョゼフが叫ぶ。マリーは誰を指しているのかすぐにわかる。


「あいつが、マリーをこんな目にあわせてるんだろ! マリーを振ったのか? やっぱりあんな盗っ人、ろくなやつじゃなかった! マリーに近付けさせなきゃよかった!」


 心から悔しそうに、ジョゼフが声を荒だてる。マリーは涙を流しながら、首を横に振った。


「兄さん、デジレ様が悪いわけじゃないの。わたしが勝手に落ち込んでいるだけなの」


「たとえマリーがそう言ってもな、おれはあいつが悪いとしか思えない! 言っただろ、おれはマリーの味方なんだ! それに、マリー、お前はあいつが好きなんだろう」


 ああ、兄は気付いていたのか。

 マリーは耐えきれずしゃくりを上げた。


「でも、失恋したの。だから、お願い兄さん。相手を探して。わたしじゃもう、探せないの」


 初恋なんて叶わないと聞く。世の中、何人もがたくさんの恋をして、叶ったり叶わなかったりしている。たとえ結婚した人でも、最初の恋であることは少ない。

 そうとわかっていても、マリーはもう自分で次の恋を探す気にはどうしてもなれなかった。恋する相手でない結婚相手さえも、探せなかった。


「……お願い!」


 心の叫びだ。


「……お兄様は、マリーの味方だぞ。頼まれたら、断れるはずがないだろ」


 どこか落ち込んで、ジョゼフが言った。

 マリーは頷いて、感謝の言葉を泣きながら伝えた。





 ジョゼフは意気消沈しながら、マリーの部屋を後にした。

 妹が頼ってくれるのは嬉しい。しかしあんなに心も身体もぼろぼろの状態で、頼ってほしい内容ではなかった。


 自室に戻れば、今日届いたらしい封筒があった。その一番上に最近見慣れた白い手紙を見つけ、手に取ってひっくり返す。

 そこに書かれている送り主は、今ジョゼフが最も見たくない人物の名前だ。


「また来たか」


 ジョゼフはそれを乱暴な手つきで引き出しに入れて、閉める。しかしつっかえて閉まらず、苛々しながら再度引き出しを開く。

 そこにはここしばらく毎日のように来ている同じ白い手紙が、何通も乱雑に入っていた。宛先は、全てマリーだ。

 ジョゼフは手紙を無理矢理押し込んで、引き出しを強く閉める。ため息をひとつついて、引き出しを一瞥(いちべつ)すると、彼はそのまま部屋を後にした。



 

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