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くちびる同盟  作者: 風見 十理
六章 目を開ける
108/139

108.彼の想い ★

 



「よくもまあ、そんな状態で出仕したものだな」


 オーギュストの心底呆れたような声が、頭上から聞こえた。

 デジレは机にぐったりと伏して、動けなかった。目は開いているものの、自分でもどこを見ているのかわからない。ただ昨日の衝撃が、ずっと頭に響いていた。


「……身体が覚えていて、ここまで動きました」


「病気だな、いろいろと」


 病気か、とデジレは思う。

 今まで病気らしいものは患ったことがなかったが、今、体の中央から広がる辛さと痛みが病気であるなら、すんなりと納得できる。これほど苦しい思いは、なかなか経験したことがなかった。


「おかしいな、あの流れでどうやって失敗するんだ。デジレが大馬鹿をしない限りは、うまくいっただろうに。お前、何をやらかしたんだ?」


 オーギュストが心配した声を掛ける。

 彼はデジレがマリーに気持ちを告げに行ったことを言っている。常に助言し、応援して心配までしてくれたオーギュストに対して、デジレはなんとか顔を上げた。


「そうですね。……殿下には、何があったか、報告しなければいけません」


 デジレは目を閉じて、心を落ち着かせるようひとつ息をはいた。


「マリーが、くちびる同盟を脱退しました」


 オーギュストにゆっくりと目を向ければ、彼は意味がわからないと眉間にしわを寄せている。

 そうなるのは当然だろう。デジレさえ、最初は理解しがたかった。


 あの日、デジレはマリーに気持ちのすべてを伝える気満々で、約束通り朝一にスリーズ邸に向かった。なぜかとげがある侍女に案内されて、応接の間に通された。

 同盟締結以来の部屋は懐かしく、自然と笑みが浮かぶ。マリーはまだだろうかと、話したいこととはなんだろうかと思いながら、デジレは照れも恥もなく、緊張もせずに真剣に待っていた。

 しかし、そんなやる気は、マリーを見た途端吹き飛んだ。


「会うことはできました。でも、その時のマリーはあまりにもひどい有様で。憔悴して、ぼろぼろでした」


 涙の跡が見え、デジレは瞬間、頭に血がのぼった。

 誰が、何が、一体マリーを泣かせたのかと、絶対に知ろうと思った。そして、それを原因を解決してみせると。

 抱きしめて落ち着かせたかった。伸ばした腕は、マリーの言葉に遮られた。


「どうしたのか聞くと、触らないで、と拒絶されました。誰がそんな目にあわせたのかと問い詰めると、泣き出して」


 触るなと言われたのは衝撃だったが、マリーの姿を見れば無理強いはできるはずがなかった。ぐっと堪えて、それでも怒りは収まらず、誰がマリーをこんなに傷付けたのかとますます腹が立った。

 ちがう、と弱々しい声で反応した彼女がぼろぼろと泣き出した時は、胸が鋭く痛んだ。とにかく慰めたい、涙を拭ってあげたいと思ったが、触れられない。焦ったくて、泣き止んでほしくて、とっさにハンカチを押し付けた。


「……同盟を、脱退させてくれ、と言われました」


 目を閉じてあふれる涙をハンカチに染み込ませながら、精一杯声を張り上げ告げてくるマリーに、唖然とした。

 なぜかわからない。しかしマリーが泣いていることに、なんらかの意味があるだろう。とにかく、理由を知りたかった。


「脱退は許可したのか」


「……はい。しました」


 デジレは俯いて、頷いた。

 理由を聞けば、脱退条件という言葉が出た。

 脱退条件。デジレがこうしようと提案したものだ。

 くちびる同盟の脱退条件は、キスしたくなるような相手が見つかった時。

 マリーには、好きな相手がいる。それでも今まで脱退したいとは言わなかった。ならば、その相手がマリーにとって、キスしたくなるような相手となったのかもしれなかった。

 もしかしたら、と、あの時デジレはマリーを見ながら考えた。もしかしたら、マリーはその相手とキスをしたのかもしれない。そして、その後うまくいかなかったのかもしれない。いずれの可能性でも共通するのは、マリーの好きな相手が彼女を泣かす原因になっていることだ。


 激しい嫉妬と怒り、深い悲しみで、デジレは狂いそうだった。

 優しいマリーのことだから、脱退はその相手の為だろう。振られたのか散々な目にあわされたのかはわからないが、そんなことがあっても、マリーは相手をずっと一途に想う為にデジレとの同盟を止めた可能性が思い付く。操を立てた、と言える。

 もしも、デジレが気持ちを伝えてもマリーが好きな相手と近付きたいと思うならば、デジレは自分を抑えてでも協力するつもりだった。だがマリーは自分で判断し、動いたのだ。好きな相手の為に。

 頭を下げて必死に頼んでくるマリーに、デジレは絶望しても、脱退は駄目だとは言えなかった。


「入り込む隙間などないと見せつけられて、そのくせ彼女がどうしようもないくらい好きで、断ることはできませんでした。……とても、気持ちを伝えられるような空気ではありませんでした」


 デジレは、思わず自嘲した。それは弱々しく、悲しみにまみれていた。


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