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くちびる同盟  作者: 風見 十理
六章 目を開ける
107/139

107.最後に

 


 すでに泣いてしまっているけれど。デジレも暗い顔だけれど。せめて、最後だけはデジレに良い印象を残して去りたい。

 マリーは、唇に笑みを浮かべた。


「デジレ様。最初の頃はずっと一方的に嫌って、本当にごめんなさい! ……ずっと、謝っていませんでしたね」


 正直言って、今でもファーストキスがあれだったのは許しきれていない。しかしそんなものをひっくり返すほど、デジレはずっとマリーを気にかけ、マリーのことを考えて動き、精一杯頑張ってくれた。

 そういう人なのだと、今なら断言できる。だからこそあの時の態度を、謝りたかった。

 しかしなぜか、ずっと謝らなかったこのことを謝ると、何かがマリーの中から消えていくような感覚がする。

 マリーはそれを無視して、続けた。


「夜会なんて全然参加してなくて、面倒なものとしか思っていませんでした。でも、デジレ様と唇の話をするのとか、相手探しであの人はどうこう言うのとか、とても楽しかったです」


 嫌がっていた夜会を楽しみに待ち、それがいつの間にやらデジレが来るのを楽しみにしはじめたのはいつのことだっただろうか。平凡とかけ離れた世界でも、デジレといれば楽しかった。

 着飾ることを覚え、貰った化粧品で唇を整えた。たくさん貰ったデジレからの贈り物。あれは、今後どうすればいいだろう。


「楽しくて、いろんなことを知って、わたしってこんなこと思えるんだなって、勉強になって。こんなこと、邸にこもっていたら絶対にわからなかったです」


 本を読んで、どんなものかと想像していた恋を知った。

 一挙一動が気になって、少しの自分の行動に沈み、ひとつの彼の言葉に大喜びし、さりげない彼の態度に傷付く。

 繊細で自分のことなのにままならない。それなのに、とても大切にしたくなる心。


「わたし、本当に」


 マリーは穏やかに微笑んで、じっとして黙っているデジレに顔を向ける。

 本当に、デジレが好きだ。

 だけど、いくら伝えたくとももう言えない。言ってしまえば、心優しい彼が傷付く。


「本当に、良い夢を見ることができました」


 不可能だと頭ではわかっているのに、デジレとの未来を想像したことがあった。好きと言われて、好きと返され。実は両想いで、恋人になれて。そして。

 それは幸せな夢だった。


「デジレ様の、おかげです」


 すっと空気を吸って、ふっとはき出す。マリーは言い切った、すっきりとした気分だった。

 最後だからとデジレを眺めていれば、表情が抜け落ちたような顔でマリーを見ていた彼が、意識を取り戻したように顔を歪める。


「……俺か」


 なんのことかわからず、マリーは首を傾げた。


「俺が、また、マリーを泣かせているのか」


 苦渋に満ちた声に、マリーはきょとんとする。なんとなく目元を触れてみれば、暖かい雫が手を伝った。濡れた手を見ながら、マリーは驚き、すぐに拭う。


「違いますよ、違います。これは、嬉し、涙ですから」


 もう、送り出さねば。いつまでもマリーが縛り付けていて良い人ではない。マリーは背筋を伸ばした。


「噂は何もなければ消えていきますよ。そしてみんな、新しいことに流されて、忘れるんです」


 大丈夫、と呟いた言葉は、デジレに向けてか、はたまたマリー自身に向けてかわからない。


「今日まで、お付き合いいただき、ありがとうございました」


 滑らかに膝を曲げ、腰を落として。頭を深く下げる礼は、身分が高い人に向ける最敬礼だと、マリーローズに教わった。

 さようなら。

 言うつもりだった言葉は声には出ず、顔を伏せながら唇でだけでなぞる。


 そうして、マリーはゆっくりと立ち上がった。目の前にデジレがいるのをわかっていながら、何も言わず、彼を見ず、背中を向ける。そのまま、急ぐこともなく応接の間から出て、扉を閉めた。






 マリーは自室への道を歩きながら、ぼんやりと先程自身が言ったことを思い出した。

 新しいことに流されて、忘れる。マリーも、デジレを忘れられるだろうか、と考える。

 今聞かれれば、絶対にできないと答えるだろう。つい今ほど別れたばかりで気持ちの整理が追いつかない。ならば、一年二年三年と、時が経てば忘れられるだろうか。いい思い出だったと思えるだろうか。

 誰かがデジレを忘れられるのかと忠告してくれた気がする。その時すでに、忘れられないほどまで想っていたのかもしれない。


 部屋に入って、ぼうっとして椅子に腰掛ける。傍にあった暦が目に入り、今日以降何も書かれていない日に、自然と視線が動く。穴が空いた心が、うずくように痛む。

 忘れられるか、といえば忘れられない。忘れるべきだと思うが、忘れたくないとも思う。

 きっと、数年は駄目だろう。その間は、相手探しなんてやめようとマリーは働かない頭で思う。

 数年経てば、マリーの失恋が多少は癒える。そしておそらく、その間に、デジレの話を聞くだろう。彼は名家の長男で、有名人で、家を存続させるために結婚はしなければいけないのだから。


「……聞きたくないなあ」


 それまでに、マリーは立ち直られるか。

 そうしてみせるという気力も湧かず、マリーはデジレを想って涙を零した。



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